豊臣秀吉の命令によって、40年以上住み続けた越後を離れることになった上杉景勝。
① 上杉景勝が越後から会津に移封された時期と理由
② 石高の変化
③ 移封が上杉家に与えた影響
を紹介します。
上杉景勝はいつ越後から会津に移封された?
文禄4年(1595年)6月、上杉景勝は小早川隆景に代わって、豊臣家五大老に名を連ねました。
上杉景勝の会津移封が決まったのは、慶長3年(1598年)1月10日。
豊臣秀吉の命令を受けた上杉景勝は準備を整え、3月6日に京都を立ちます。
そして、24日には、会津に入りました。
上杉景勝はなぜ越後から会津に移封された?
弘元元年(1555年)に越後国で生まれた上杉景勝。
豊臣秀吉の命令によって、40年以上住み続けた越後を離れることになりました。
豊臣秀吉が上杉景勝に会津移封を命じたのには、2つの理由があります。
蒲生家に任せられなくなったから
文禄4年(1595年)2月、会津若松城主・蒲生氏郷が40歳で病死。
豊臣秀吉は京の南禅寺で禅修行をしていた蒲生氏郷の長男・秀行を元服させ、会津へ入国させました。
といっても、秀行はまだ13歳。
子供なうえに、これまで禅修行に励んでいたため、政務を知りません。
そこで、蒲生郷安が秀行をサポートすることになりました。
また、豊臣秀吉の側近である石田三成とも仲良し。
蒲生郷安が秀行をサポートするのは自然な流れだったかもしれません。
ただ、蒲生郷安が権力を拡大していることに不満を抱く者も少なくありませんでした。
慶長2年(1597年)、家臣同士の対立の末、蒲生郷安は会津総奉行・綿利良秋を殺害。
蒲生郷安に不満を抱いていた蒲生郷可・郷成一派は豊臣秀吉に事件を報告します。
「蒲生氏に会津を任せてはおけない」と判断した豊臣秀吉は国替えを実施。
上杉景勝に会津を任せることにしました。
上杉景勝が治めていた越後春日山城には、堀秀治が30万石で入ります。
また、新発田城には溝口秀勝、本庄(村上)城には村上義昭が封じられました。
伊達政宗と徳川家康を警戒したから
豊富な水に恵まれつつも河川の氾濫が少なかった会津。
他の地域が凶作に苦しんでいる時でも、会津は米をたくさん生産することができました。
また、会津では早くから磐梯山恵日寺を中心に仏教文化が栄えていました。
そのため、奥羽各地から関東、北陸に向かって、
① 白河街道
② 下野街道
③ 二本松街道
④ 米沢街道
⑤ 越後街道
と5つの街道が放射状に伸び、交通の要衝でもありました。

会津は軍事的、商業的に重要な意味をもっていたんです。
☑ 伊達政宗や最上義光をはじめとする東北の諸大名
☑ 関東の徳川家康
を警戒していた豊臣秀吉。
東北の諸大名と徳川家康をけん制するべく、上杉景勝に会津を任せました。
石高の変化
上杉家の従来の領地は越後国、佐渡国、出羽国庄内三郡、信濃国川中島四郡など、総石高91万石。
移封後は、そのまま引き継いだ佐渡国、出羽国庄内三郡と会津を合わせ、総石高120万石となりました。
この頃、100万石を超える大名は、徳川家康260万石、毛利輝元129万石の二人だけ。

つまり、上杉景勝は天下で三本の指に入る大名になったんです。
また、
☑ 金山のある佐渡国
☑ 日本海舟運の基地である出羽庄内
の領有を許されたことは、上杉景勝にとって好都合でした。
移封が上杉家に与えた影響
豊臣秀吉は会津移封にあたって、
☑ 武家は全員会津に連れていく
☑ 農民は全員越後に置いていく
ように命じました。
というのも、上杉家は兵農一致で、越後の農民は足腰も剣術も鍛え抜かれた兵士。
豊臣秀吉は上杉景勝が農民を連れていくことを恐れていました。
この命令を守った上杉軍の兵力は大きく減ってしまいます。

上杉景勝の石高120万石のうち…
豊臣秀吉の命によって、米沢30万石は直江兼続が領有することになります。
このうち、
・北の最上氏に対抗する米沢城に直江兼続自ら(6万石)
・越後、下野と会津を結ぶ経路にあたる南山城に弟・大国実頼(2万1千石)
・伊達氏に対抗する白石城に甘粕景継(2万石)
が入り、守りを固めました。
また、直江兼続は岩井信能、安田能元、大石元綱を会津三奉行に指名し、政務を任せました。
更に、前田慶次郎や佐竹家旧臣・車丹波を召し抱えます。
直江兼続は会津若松の繁栄を図るため、商人の税金を一年間免除します。
また、越後の特産品である青苧の生産を奨励し、領内の産業の振興に務めました。

それでも、軍事費を蓄えるにはとても間に合いません。
直江兼続は領内の年貢を蒲生時代の3割8分から5割へと引き上げます。
そして、増収分を軍道の建設や鉄砲の製造にあてました。
まとめ:豊臣秀吉は伊達政宗、徳川家康、上杉景勝を警戒していた!
① 上杉景勝が越後から会津に移封された時期と理由
② 石高の変化
③ 移封が上杉家に与えた影響
を紹介しました。
豊臣秀吉によって、東北の諸大名と関東の徳川家康をけん制するために会津に移封された上杉景勝。
徳川家康のけん制という使命を課せられたこの時、上杉景勝と徳川家康の対立は始まったのかもしれませんね。
2009年のNHK大河ドラマ「天地人」を見て、直江兼続に興味をもった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
直江兼続について知りたい方は、火坂雅志著「天地人」がおすすめ。
直江兼続を取り巻く上杉景勝、豊臣秀吉や徳川家康の心情、視点も丁寧に描かれています。
真田幸村とのやり取りにも注目です。
ぜひ一度、「天地人」を読んでみてください
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!