本多正信を帰参させ井伊直政を叱った小田原城主・大久保忠世の生涯と逸話

① 父・大久保忠員
② 弟・大久保忠佐
と一緒に徳川家康に仕えた大久保忠世。

大久保忠世は徳川家康を一度も裏切ることなく、三方ヶ原の戦いで大敗した徳川軍の敵討ちをしました。

本多正信を帰参させ、井伊直政を叱った小田原城主・大久保忠世生涯逸話を紹介します。

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大久保忠世の生涯

大久保忠世は天文元年(1532年)生まれで、大久保忠員(ただかず)の長男として誕生しました。

① 徳川家康の祖父・松平清康
② 徳川家康の父・松平広忠
③ 徳川家康
の3代に仕えた大久保忠員は、蟹江七本槍の一人に名を連ねました。

三河一向一揆で徳川家康に従う

徳川家臣の多くが一揆衆に加勢した、永禄6年(1563年)の三河一向一揆。
大久保家は誰一人一揆衆に加勢せず、徳川家康に従いました。

犀ヶ崖の戦いを起こす

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に敗北。

三方ヶ原の戦いの前哨戦である
① 一言坂の戦い
② 二俣城の戦い
でも敗北していた徳川家康は、多くの家臣を失ったことを悲しみました。

そこで、戦をこのまま終わらせるわけにはいかないと、大久保忠世は奮起。
徳川軍との戦いを終えて、気を緩めていた武田軍を夜襲し、犀ヶ崖に追い込みました。

犬居城攻めに参戦する

天正2年(1574年)には、武田氏の支配する犬居城を攻めに参戦。

兵糧の尽きた徳川軍はやむなく退却することとなりましたが、退却中に犬居城兵の追撃を受けました。

殿(しんがり)を務めた大久保忠世は、城兵の攻撃を受け、崖から落ちてしまいます。
でも、大久保忠世はその崖をのぼり、城兵を討ち取りました。

二俣城主となる

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、弟・大久保忠佐と共に武功をあげます。
一緒に戦っていた織田信長から「大久保兄弟は敵に引っ付いて離れない貼り薬のようだ」と称賛されました。

織田信長から家臣を褒められた徳川家康は鼻高々。

武功を改めて評価された大久保忠世は、徳川家康から1尺4寸5分(約44センチメートル)にも及ぶ法螺貝を贈られました。
この巨大な法螺貝を「長篠」と名付け、大久保家の家宝としました。

また、この年、大久保忠世は二俣城主に任命され、武田軍の侵攻に備えて、城を改修しました。

小田原城主となり、63歳で亡くなる

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されると、大久保忠世は小田原4万5000石の大名となりました。

大久保忠佐は沼津2万石を知行し、兄弟揃って、大出世を遂げました。

小田原城主となった大久保忠世は反乱を繰り返していた酒匂川(さかわがわ)の治水工事に乗り出します。

ところが、治水工事が完了する前の文禄3年(1594年)、大久保忠世は63歳で亡くなりました。

治水工事は長男・大久保忠隣に引き継がれ、川筋に堤防が築かれました。

大久保忠世の逸話

三方ヶ原の戦いでも、犬居城攻めでもやられたらやり返した大久保忠世。

大久保忠世の人物像が分かる逸話を3つ紹介します。

七不食

大名にまで出世し、生活に困窮することのなかった大久保忠世。
それでも、大久保忠世は万が一お金に困ることがあればと、生涯を通じて倹約しました。

おゆう
おゆう

大久保忠世の倹約方法の中でも有名なのが七不食(ななくわず)です。

毎月7日間は食事を全く摂らないと決め、実際に絶食に成功していました。
食事を摂らずに戦で活躍するなんて、大久保忠世のパワーの源は何だったのでしょうか。

本多正信を帰参させた

中国の前漢王朝の初代皇帝・劉邦に仕えた武将・樊噲。
樊噲にちなんで、大久保忠佐は「今樊噲(いまばんかい)」と呼ばれましたが、政治面でも才能を発揮。

三河一向一揆で徳川家康に剣を向けた本多正信をはじめ、徳川家康のもとを離れた譜代衆を取りなしました。

井伊直政を叱った

大久保忠世と共に出陣した井伊直政は、陣中で芋汁を食べることとなりました。

芋汁ときくと美味しそうに感じられるかもしれませんが、陣中で食べられる芋汁は簡素なもの。
芋は入っておらず、具は茎だけでした。

おゆう
おゆう

兵は皆芋汁を食べましたが、井伊直政だけ箸が進みません。

大久保忠世が井伊直政に理由をたずねると、井伊直政は「味が薄いので、醤油がほしい」と言いました。

すると、大久保忠世は、
・「兵は皆同じものを食べている。戦場では食事を満足に摂れないのが通常であり、また、農民の中には芋汁すら食べられない者もいる」
・「人の上に立ちたいなら、貧しい生活を送る者を忘れてはいけない」
と言って、井伊直政を叱りました。

徳川家康と似た境遇で育った井伊直政は徳川家康から気に入られ、若くして取り立てられていました。

大きな手柄をあげていないのに、徳川家康から気に入られていた井伊直政。
皆の注目の的で、中には、井伊直政に嫉妬する者もいました。

状況を理解していた大久保忠世は、あえて井伊直政に厳しく接したんですね。

まとめ:大久保忠世はいい意味で自分にも他人にも厳しかった!

本多正信を帰参させ、井伊直政を叱った小田原城主・大久保忠世生涯逸話を紹介しました。

本多正信を帰参させたり、井伊直政の将来を想って叱ったりと、面倒見の良かった大久保忠世。
10歳年下だった徳川家康にとって、大久保忠世は頼もしいお兄さんのような存在だったのではないでしょうか。

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