正室の役割と条件は?政略結婚の夫婦仲は悪い?側室、継室との違いは?

戦国大名や武将の多くは正室、側室、(場合によっては)継室を迎えました。
特に、正室と継室は政略結婚がほとんどでした。

正室役割条件
政略結婚夫婦仲
③ (正室と)側室継室違い
を紹介します。

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正室の役割と条件は?

漢字のとおり、正室は正式な妻(本妻)を指します。

といっても、全ての男性の妻が「正室」と呼ばれるわけではありません。
身分の高い男性の妻を表す時に使われます。

役割

正室は行事には夫の隣に座って参加し、宴会では率先して客人をもてなしました。
また、側室や侍女など、一門の女性をとりまとめ、夫の不在時には、代理として仕事をしました。

豊臣秀吉政権下では、戦国大名の正室は人質として京都に住まわされました。

条件

夫と共に場をなごませ、時には、夫の代理人や人質になる正室。
周囲からナメられないように、正室は身分の高い家柄から迎えました。

戦国大名や武将は自国のトップ。
自国のトップは身分の高い家柄の娘をどのようにしてみつけたのでしょうか。

当時の女性は12歳から15歳の間に、成人の儀式・髪上げを行いました。

成人として認められた女性の嫁ぎ先は、
① 敵国の戦国大名や武将
→ 同盟を結ぶために、人質として嫁がせる
② 隣国の戦国大名や武将の嫡男
→ 同じく、同盟を結ぶために、人質として嫁がせる
③ 優秀な家臣
→ 主従関係を強化するために嫁がせる
のいずれか。

つまり、周囲の国のトップの娘から正室を迎えたんですね。

武士
武士

同盟のために、人質として娘を嫁がせた例で分かりやすいのが甲相駿三国同盟です。

天文23年(1554年)、
① 甲斐国を治めていた武田信玄
② 相模国を治めていた北条氏康
③ 駿河国を治めていた今川義元
の三者間で、甲相駿三国同盟を結ぶことになりました。

この時、
① 武田信玄は娘・黄梅院を北条氏康の子・氏政
② 北条氏康は娘・早川殿を今川義元の子・氏真
③ 今川義元は娘・嶺松院を武田信玄の子・義信
に嫁がせました。

天正4年(1576年)には、同盟強化のため、北条氏康は娘・桂林院殿を武田勝頼の継室として嫁がせました。
また、武田勝頼は妹・菊姫を上杉景勝に嫁がせました。

今川家は一足先に滅亡しますが、武田家や北条家はその時の情勢に合わせて隣国の諸大名と婚姻関係を結び、生き残りを図っていたことがよくわかります。

政略結婚の夫婦仲は悪い?

「政略結婚」と聞くと、

恋愛結婚とは違って、夫婦仲は最初から冷めているんじゃない?

と想像する方も多くいらっしゃると思います。

でも、必ずしも、政略結婚の夫婦は仲が悪い、不幸だというわけではありません。

天文23年(1554年)に、北条氏政に嫁いだ黄梅院。
翌年、12歳の若さで長男を授かり、合計4人の子供を産みました。

ところが、永禄11年(1568年)、父・武田信玄が駿河を侵攻し、三国同盟は破綻。

北条氏康は同盟を破った武田信玄に激怒。
北条氏政と離縁させ、黄梅院を武田家に送り返してしまいます。

翌年、黄梅院は27歳の若さで死去。
元亀2年(1571年)に再び武田氏と同盟を結んだ北条氏政は黄梅院の分骨を受け取り、手厚く弔いました。

最近では、黄梅院は離別されず、小田原城にいたかもしれないといわれています。
いずれにしても、黄梅院は北条氏政から大事にされていたことがわかりますね。

その他、今川氏真と早川殿も夫婦仲が良かったといわれています。

武田信玄や徳川家康、北条氏政に追われ、今川氏真は各地を転々としました。
早川殿は北条家に帰ることなく、今川氏真と共に死ぬまで一緒に過ごします。

政略結婚で夫婦になったからといって、夫婦仲は必ずしも悪いとは限らないんですね。

側室、継室との違いは?

戦国大名や武将が正室の他に迎えた側室と継室。
正室と側室、継室の違いは何でしょうか。

側室

側室は正室以外の妻を指します。
正室とは異なり、家柄や出身は特に問われませんでした。

武士
武士

側室の役割は子孫をできるだけ多く残し、家を絶やさないこと。

・娘であれば、同盟国や優秀な家臣に嫁がせる
・息子であれば、忠誠心を示すために人質として送る
ことができます。

ただ、側室が正室より先に長男を産むと、お家騒動の原因になりました。
また、正室が子供を授からず、側室が子供を授かると、正室が精神を患うことも少なくありませんでした。

継室

継室は正室が亡くなる、何らかの理由で離縁するなどした後に身分の高い家から迎えられる後妻を指します。

例えば、徳川家康は正室・築山殿がいましたが、築山殿の死後、豊臣秀吉の妹・朝日姫を継室に迎えました。

まとめ:正室にはデキる女が求められた!

正室役割条件
政略結婚夫婦仲
③ (正室と)側室継室違い
を紹介しました。

子孫をできるだけ多く残すことが求められた側室は、家柄や出身を特に問われませんでした。
一方、夫と共に場を和ませ、時には夫の代理人や人質になる正室と継室は、身分の高い家柄から迎えました。

政略結婚であっても、仲睦まじく添いとげた夫婦が少なくなかったことは救いですね。

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