足利義昭はなぜ出家した?上洛して将軍になるまでをわかりやすく解説

室町幕府第15代将軍・足利義昭。
足利義昭は6歳で出家し、32歳で将軍になりました。

足利義昭出家した理由上洛して将軍になるまでをわかりやすく解説します。

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足利義昭はなぜ出家した?

足利義昭の父である第12代将軍・義晴には、
① 長男・義輝(第13代将軍)
② 次男・義昭
③ 三男・照山周暠
がいて、足利義晴は義昭と照山周暠を出家させました。

足利義昭の行き先は奈良市登大路町にある法相宗大本山の興福寺。

足利義晴が興福寺に出家させた目的は、
① 跡継ぎ争いを避けるため(跡継ぎは長男・義輝)
② 大和国の寺社勢力を得るため(興福寺は大和一国の国主)
の2つです。

足利義昭
足利義昭

応仁元年(1467年)に発生した応仁の乱は、
① 足利義政の息子・義尚と弟・義視
② 管領・畠山持国の息子・義就と弟・政長
の跡継ぎ争いが原因の一つとされています。

足利義晴自身も兄弟と将軍の座を巡って争ったため、跡継ぎ争いを心配するのも無理はありませんでした。

足利義昭が上洛して将軍になるまで

ところが、三好義継と三好三人衆によって、第13代将軍・足利義輝は殺されてしまいます。

この永禄の変では、照山周暠も殺されています。

三好義継と三好三人衆の目的は、足利義昭の従兄弟・義栄を将軍にすること。

三好氏の重臣・松永久秀は足利義昭を興福寺に幽閉しました。
足利義昭を殺さず幽閉にとどめた理由は、松永久秀が興福寺の勢力を恐れたからだといわれています。

和田城に匿われる

幽閉されて2ヶ月後の7月28日、足利義輝の遺臣の協力で、足利義昭は興福寺を脱出。
この時、三好氏から松永久秀は責任を問われ、足利義昭を支援する織田信長に寝返りました。

興福寺を脱出した足利義昭は近江甲賀郡の和田城に向かい、城主・和田惟政に匿われます。

矢島御所に移る

足利義昭は和田城から各国の大名に御内書を送り、上洛を手伝ってほしいと呼びかけます。

永禄8年(1565年)11月、足利義昭は近江の六角義賢(承禎)を頼り、矢島に入りました。

何故、足利義昭は矢島に移ったのでしょうか。

当時、足利義栄を擁立する三好氏内部で争いが発生していました。
そこで、足利義昭は京に近い矢島御所から上洛のチャンスをうかがうことにしました。

各国の大名に上洛するまで戦を中止するよう求める

ところが、御内書に対して良い返事をしたのは、たった一人でした。

御内書の宛先は安芸の毛利元就、尾張の織田信長、三河の徳川家康、越前の朝倉義景、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄など、有名な大名ばかり。

当時は戦乱の世。
有名大名ともなると戦に忙しく、上洛に必要な軍とお金を出せませんでした。

足利義昭
足利義昭

そのような中、上洛に協力すると返事したのは織田信長でした。

足利義昭は各国の大名に対し、上洛するまで戦を中止するように求めました。
戦の真っ最中だった織田信長と美濃の斎藤龍興は和解しました。

織田信長が上洛の協力に失敗する

足利義昭の上洛は現実味を帯びてきました。
僧のまま上洛し、将軍になるわけにはいきません。

永禄9年(1566年)2月、足利義昭は還俗しました。

ところが、三好氏の軍勢3000人が突然矢島御所を目指して進軍。
実は、矢島御所に内通者がいたんです。

この時、矢島御所から15km程離れた坂本で迎撃し、無事撃退することができました。

8月29日、準備を整えた織田信長は斎藤龍興の治める美濃に入ろうとしました。

すると、和解したはずの斎藤龍興から攻撃を受けます。
織田信長は足利義昭を迎えに行くことができませんでした。

一乗谷へ移る

六角義賢が三好三人衆と手を結んだことを知った足利義昭。
翌月9月8日、足利義昭は越前の朝倉義景を頼り、わずか5人の家来と共に一乗谷へ向かいました。

朝倉義景は足利義昭を受け入れたものの、加賀一向一揆の平定を理由に上洛の協力を拒否。
少しでも早く上洛したい足利義昭は仲介に入り、朝倉義景と一向宗徒を和解させました。

永禄11年(1568年)2月8日、足利義栄が摂津の普門寺に滞在したまま、将軍職に就いてしまいます。
それでも、朝倉義景は足利義昭の上洛を全く手伝おうとしません。

朝倉義景が足利義昭に協力しなかったのは、
① 畿内一帯を支配する三好氏に立ち向かう勇気がなかった
② 長男・阿君丸が亡くなり、気力を失っていた
からだといわれています。

織田信長を頼り、岐阜城下へ移る

織田信長が上洛の手伝いに失敗してから、既に一年半の歳月が経っていました。

織田信長はこの一年半の間に、
☑ 上洛の協力を邪魔した斎藤龍興を討つ
☑ 妹・お市を北近江の浅井長政に嫁がせて同盟を結ぶ
☑ 長女・徳姫を徳川家康の長男・信康に嫁がせて同盟を結ぶ
などし、上洛の準備を整えていました。

足利義昭は朝倉義景にしびれを切らし、勢いのある織田信長を頼ります。

六角氏を蹴散らし、上洛を果たす

織田信長によって、足利義昭は岐阜城下の立政寺に迎えられました。

織田信長は足利義昭を奉じ、
☑ 9月8日から12日にかけては、美作城の戦い
☑ 13日には、六角氏の居城・観音寺城の戦い
で勝利し、上洛を邪魔する近江の六角氏を蹴散らしました。

織田信長は足利義昭と共に京にたどり着き、26日、足利義昭は清水寺に入って上洛。

4日後の30日には、第14代将軍・足利義栄が病死します。
三好三人衆は阿波に退散しました。

10月18日、足利義昭は晴れて第15代将軍に就任することができました。

足利義昭
足利義昭

幽閉されてから将軍になるまでの動きをまとめると、次のようになります。

まとめ:足利義昭を支えたのは上洛と将軍への執着心!

足利義昭出家した理由上洛して将軍になるまでをわかりやすく解説しました。

従兄弟・義栄を正当な後継者として認めず、僧から将軍を目指した足利義昭。
足利義昭が将軍に就任するまで、2年8ヶ月もの歳月が流れていました。

永禄の変で亡くなった兄弟も浮かばれたのではないでしょうか。

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