徳川四天王の一人・本多忠勝の生涯と逸話

織田信長、武田信玄など、数々の戦国武将から羨まれた最強の武将・本多忠勝。

徳川四天王の一人・本多忠勝生涯逸話を紹介します。

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本多忠勝の生涯

本多忠勝は天文17年(1548年)生まれ。

① 徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠に仕えた本多忠高
② 徳川家康の曾祖父・松平信忠に仕えた植村氏義の娘・小夜
の間に長男として誕生しました。

ところが、一歳になったばかりの本多忠勝を残して、本多忠高は天文18年(1549年)に亡くなります。
そのため、本多忠勝は叔父・本多忠真のもとに身を寄せ、本多忠真に育てられました。

本多正信・正純親子と遠縁にあたる本多忠勝。

本多正信と本多正純は小細工が好きな策略家でしたが、本多忠勝は武力でその名を全国にとどろかせました。

三方ヶ原の戦いで殿を務める

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一向宗から浄土宗に改宗し、徳川家康に従いました。

三方ヶ原の戦いの前哨戦である一言坂の戦いでは、自ら殿(しんがり)を務めて時間を稼ぎ、徳川軍の退却を成功させました。

この時、武田家臣・小杉左近は

家康に過ぎたるものは本多平八(忠勝)

と言って、本多忠勝の武功を高く評価しました。

伊賀越えを成功させる

天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が討たれると、動揺した徳川家康は自害しようとします。

本多忠勝は徳川家康を落ち着かせ、伊賀を越えて、岡崎城へ戻るよう進言。
本多忠勝が徳川家康を落ち着かせていなければ、この時、徳川家康は亡くなっていたかもしれません。

63歳で亡くなる

関ヶ原の戦いが終わった後、徳川家康は法による統治を行いました。

徳川家康が江戸幕府を開いたことにより、武力で統治を行ってきた戦国時代が終わりを告げます。
戦で手柄をあげてきた本多忠勝の出番は減っていきました。

本多忠勝は自分の引き際を分かっていたのかもしれません。
慶長9年(1604年)、病を患った本多忠勝は、

隠居したい。

と申し出ました。

でも、許しを得られず、本多忠勝は引き続き徳川家康に仕えました。

慶長12年(1607年)には眼病を患い、慶長14年(1609年)にようやく隠居が許されました。
本多忠勝は長男・本多忠政に家督を譲り隠居します。
その翌年、慶長15年(1610年)、63歳で亡くなりました。

本多忠勝が亡くなった後、本多忠勝の書いた遺書がみつかりました。
遺書には「主君と枕を並べて討ち死にし、忠誠を尽くしてこそ侍である」と書かれていました。

徳川家康が法による統治を行っても、出番が減っても、本多忠勝は武士として最期まで徳川家康に忠誠心を抱いていたんですね。

本多忠勝の逸話

本多忠勝には次のような逸話があります。

敵の前で馬の口を洗った

天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦い。
小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉率いる3万8000人の兵をわずか500騎で迎え撃つこととなりました。

でも、60倍を超える兵力差に、本多忠勝は驚きも、恐れもしませんでした。
豊臣秀吉を目の前に、馬を連れて川に入り、馬の口を丁寧に洗ったんです。

豊臣家臣・加藤清正、福島正則は、

今のうちに、本多忠勝を討つべきだ。

と言って、本多忠勝に鉄砲を向けました。

それでも、本多忠勝は動じることなく、馬の口を洗い続けました。
加藤清正と福島正則を制し、豊臣秀吉は本多忠勝が馬の口を洗い終えるまで待ちました。

豊臣秀吉が本多忠勝を待ったのは、「徳川家康を討った暁には、本多忠勝を家臣に加えよう」と企んでいたためだといわれています。

戦場で数珠を身に着けていた

戦で一度も傷を負ったことのない本多忠勝。
本多忠勝が長槍・蜻蛉切(とんぼきり)で討った兵の数は、私達が想像している以上だと思います。

おゆう
おゆう

でも、本多忠勝は戦いが上手だっただけで、好きで命を奪っていたわけではありません。

その証拠に、戦場では常に数珠を身に着けていました。
相手がたとえ敵であっても、本多忠勝は自分が命を奪う敵に弔意を示していました。

真田昌幸・真田信之の命を救った

関ヶ原の戦いの後、徳川家では、西軍についた真田昌幸・信之親子の処刑について議論がなされました。

徳川家康と三男・徳川秀忠は真田親子を処刑するべきだと言いました。
でも、本多忠勝は批判を恐れることなく助命を嘆願しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

というのも、本多忠勝にとって、真田信之は婿にあたるからです。

天正13年(1585年)に、真田昌幸・真田信之と徳川秀忠の間で上田合戦が勃発。
戦の結果は真田軍が勝利し、徳川軍が敗北しましたが、豊臣秀吉は真田昌幸に徳川家康の与力大名となるよう命じました。
徳川家康は真田家と姻戚関係を結び、結びつきを強くしようと、本多忠勝の娘・小松姫を養女に迎えたうえで真田信之に嫁がせました。

なんとしても真田親子を助けたかった本多忠勝は、

養女の夫・真田信之は殿(徳川家康)にとって息子のようなもの。
息子の父と弟の命を奪ってもいいのですか?

と言いました。
それでも、徳川家康は真田親子を処刑すると言います。

すると、本多忠勝は、

では、私も真田家と共に上田城に籠城して徳川家と戦います。

と宣言。

数々の戦で一度も傷を負わなかった本多忠勝と剣を交えることに恐怖を感じた徳川家臣。
慌てて本多忠勝の意見に賛同し、真田親子を助命するよう申し出ました。

結果、真田親子は九度山に流刑となり、命は助かりました。

まとめ:本多忠勝は徳川家の軍神だった!

徳川四天王の一人・本多忠勝生涯逸話を紹介しました。

桶狭間の戦いをはじめ、本多忠勝は徳川家康の主要な戦いで常に最前線に立ち続けました。

本多忠勝は軽装でありながら、敵の槍や鉄砲を受けず、一度も傷を負いませんでした。
徳川家康が最も頼りにした武将だったのではないでしょうか。

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