豊臣秀吉と清水宗治の備中高松城の戦いの原因と経過、結果をわかりやすく

太田城の戦い、忍城の戦いと共に三大水攻めの一つに数えられる備中高松城の戦い。

豊臣秀吉清水宗治備中高松城の戦い原因経過結果わかりやすく紹介します。

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備中高松城の戦いとは?

備中高松城の戦いとは、天正10年(1582年)4月に、
☑ 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)
☑ 毛利輝元の家臣・清水宗治
の間で起きた戦いを指します。

香川県にも高松城があるため、区別しやすいように備中高松城と呼ばれています。

備中高松城の戦いの原因

2年前の天正8年(1580年)、豊臣秀吉と毛利輝元の家臣・吉川経家の間で鳥取城の戦いが起きました。

当初、備前の宇喜多直家は毛利輝元に仕えていましたが、織田信長の力を知って毛利氏から離反。
宇喜多直家は豊臣秀吉に降参を申し入れ、織田家の傘下に入りました。

翌年の天正9年(1581年)、宇喜多直家が亡くなります。

豊臣家家紋
豊臣秀吉

跡継ぎの宇喜多秀家は当時11歳。
豊臣秀吉は宇喜多秀家の後見人になり、備前を手中に収めました。

天正10年(1582年)2月、備中高松城の戦いが起きる2ヶ月前。

☑ 宇喜多秀家の義兄弟・基家
☑ 毛利輝元の家臣・穂井田元清
の間で八浜合戦が起き、宇喜多基江が討たれました。

後見人として、豊臣秀吉は宇喜多秀家の悲しみを放っておけません。

豊臣秀吉は中国地方への出陣の決意し、備前と備中の境にある境目七城を攻めることにしました。

備中高松城の戦いの経過

境目七城は宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、松島城、庭瀬城。

この中でも、備中高松城は、
① 低湿地を利用した平城(3方向が沼地)
② 敵が侵入しようとしたら、城外につながる橋を落とせばいい
③ 城兵の数は3000人から5000人
という3つの特徴をもっていて、簡単に攻め落とせる城ではありませんでした。

降伏条件を提示するも、清水宗治は応じず

そこで、豊臣秀吉は黒田官兵衛を派遣し、

豊臣家家紋
豊臣秀吉

降伏すれば、備中と備後の2ヶ国を与える。

という条件を清水宗治に提示。

ところが、清水宗治は応じず、主君・毛利輝元に報告しました。

この間、豊臣秀吉は備中高松城以外の境目七城も攻撃しますが、なかなか攻め落とせません。

・豊臣秀吉が苦戦している
・瀬戸内海には毛利氏の水軍がいる
ことから、毛利輝元は戦を楽観的に考えていました。

足守川の水を堤防でせき止める

境目七城の攻略に苦戦していた豊臣秀吉。
戦況が徐々に変わり、宮路山城、冠山城、加茂城、日幡城、松島城の5つを攻め落とします。

備中高松城の戦いが始まった翌月の5月1日。
豊臣秀吉は備中高松城を水攻めすると決めました。

城が複数の山と足守川に囲まれていることに注目し、川をせき止めて城を水浸しにしようと考えたんです。

現在の足守駅付近から蛙ヶ鼻までの東南約3kmにわたる堤防工事に着手。
高額な報酬を与えて武士や農民らを総動員したため、堤防はわずか12日間で完成しました。

備中高松城は湖に浮かぶ孤島に

梅雨の時期にあたり、大雨が降り続きます。
堤防でせき止められた足守川は増水し、備中高松城を中心に200haもの湖ができあがりました。

備中高松城は湖に浮かぶ孤島になりました。

豊臣秀吉は備中高松城を取り囲むように軍を配置。
また、近くの石井山に陣を設け、城内の様子を監視しました。

三木城の戦いや鳥取城の戦いで兵糧攻めにあった毛利氏。

反省を生かし、清水宗治は城内に十分な兵糧を蓄えていました。

ところが、水攻めによって兵糧は水浸しになり、物資の補給路も断たれてしまいます。
城内まで浸水したため、城兵は小舟に乗って連絡を取り合わなくてはいけませんでした。

備中高松城の戦いの結果

毛利輝元、吉川元春、小早川隆景は5万人の援軍と共に備中高松城の近くに布陣します。
でも、湖に浮かぶ孤島となった備中高松城に近づけません。

また、豊臣秀吉は毛利水軍を調略し、毛利氏は海路から兵糧を補給することができなくなりました。

毛利家家紋
毛利家

戦をこれ以上長引かせると、
① 兵が餓死する
② 織田信長自ら出陣する
などして、毛利氏は危機的状況に陥ります。

清水宗治を何として助けたい毛利輝元は、早く降伏するよう清水宗治に呼びかけます。

そして、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊を派遣。
「備中・備後・美作・伯耆・出雲の5ヶ国の割譲と城兵の生命保全」の条件を豊臣秀吉に提示しました。

すると、豊臣秀吉は「5ヶ国の割譲と清水宗治の切腹」を要求しました。

清水宗治は城と共に人生を終えることを選びました。
毛利輝元は豊臣秀吉の条件を受け入れ、両者の間で和睦が成立。

豊臣秀吉は清水宗治に酒と肴を贈り、清水宗治は城兵と共に宴会を開きます。

宴会を楽しんだ後、城内を清掃し、身なりを整えました。
そして、小舟に乗って豊臣秀吉のもとへ出向き、杯を交わして舞を踊ります。

その後、清水宗治は兄・清水宗知(月清入道)、弟・難波宗忠(伝兵衛)、援将・末近信賀と共に自害。
豊臣秀吉は清水宗治を武士の鏡として称賛しました。

備中高松城の戦いが終わると、豊臣秀吉は留守居・杉原家次を置いてすぐに撤退します。
この戦の裏で、本能寺の変が起き、豊臣秀吉は明智光秀を討って、仇を取らなければいけなかったからです。

豊臣秀吉が撤退した翌日、毛利氏は織田信長が亡くなっていたことを知りました。

備中高松城の戦いの最中に、豊臣秀吉は大きな後ろ盾を失っていた。
吉川元春は豊臣秀吉を追撃するべきだと主張します。

ところが、小早川隆景は「和睦が成立した以上、約束は守らなければいけない」と進言。
毛利輝元も小早川隆景の主張に従い、豊臣秀吉は中国大返しを成功させました。

まとめ:清水宗治は最後まで城主であり武士だった!

豊臣秀吉清水宗治備中高松城の戦い原因経過結果わかりやすく紹介しました。

豊臣秀吉の水攻めで有名な備中高松城の戦い。

① 自らの命と引き換えに城兵を助ける
② 明け渡す前に、城内を清掃する
③ 豊臣秀吉と杯を交わして舞い踊る
など、城主・清水宗治は最後まで武士として振る舞いました。

備中高松城は現在城址公園になっています。
城址公園を散策しながら、清水宗治を偲んでみてはいかがでしょうか。
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