徳川四天王の一人に名をつらねる井伊直政。
井伊直政のその生い立ちは壮絶でした。
井伊直政の生い立ち、井伊直虎との関係を簡単にわかりやすく紹介します。
井伊直政ってどんな人?
井伊直政は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政と肩を並べる徳川四天王の一人です。
徳川四天王の中で、井伊直政は最年少。
でも、江戸幕府が成立する前年の慶長7年(1602年)に42歳でこの世を去りました。
生い立ち
井伊直政は永禄4年(1561年)生まれ。
今川家臣・井伊直親と井伊家臣・奥山朝利の娘(ひよ)の間に長男として誕生しました。
② 父・井伊直親は小野政直の長男・小野道好の策略
により謀反の疑いをかけられて、今川義元に殺されました。
井伊直政の叔母・次郎法師が井伊直虎と名乗って家督を継ぎます。
でも、井伊家は滅亡寸前、存続の危機に立たされていました。
小野政直・小野道好親子により、祖父、父の命を奪われた井伊直政。
井伊直政も命を狙われないはずがありません。
井伊直政はひよと共に暮らしていましたが、小野道好が攻め入ろうとしていることが判明。
井伊直政は強制的に出家させられ、永禄11年(1568年)、三河の鳳来寺に身を移すこととなりました。
13歳で徳川家康に仕える
それから6年が経った天正2年(1574年)。
井伊直親の13回忌を機に、井伊家を再興するべく、話し合いが行われました。
井伊直虎は井伊直政を徳川家康の家臣に推薦。
天正3年(1574年)、徳川家康に才能を認められた井伊直政は再び井伊氏を名乗ります。
そして、徳川家康のもとで井伊家の再興を目指すこととなりました。
井伊の赤備えの誕生
井伊直政は高天神城の戦いをはじめとした武田軍との戦いで武功をあげ、天正10年(1582年)に元服。
後に、徳川家康が武田家の支配していた信濃・甲斐を徳川家の支配下に置くと、旧武田家臣のほとんどを井伊直政に預けました。
井伊直政は武田四天王の一人・山県昌景が身に着けていた朱色の軍装まで引き継ぎます。
井伊直政の率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれるようになりました。
箕輪城主となる
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、池田恒興を討つ武功をあげます。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条軍に夜襲をかけて小田原城内に突入。
天正19年(1591年)の九戸政実の乱では軍の先鋒を務め、徳川家臣の中でも、真っ先に敵陣に突撃していく切込み隊長として地位を確立しました。
その後、徳川家康が関東に移封されると、上野国箕輪に12万石で封じられました。
42歳で亡くなる
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が亡くなると、豊臣家臣を徳川家臣に引き入れるべく奔走。
特に、黒田官兵衛・長政親子とは強固な関係を築きます。
そして、芋づる式に多くの武将を徳川家臣に引き入れることに成功しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、本多忠勝と共に東軍を指揮した他、全国の諸大名を東軍につけるべく奔走。
また、先陣を切ることが決まっていた福島正則より先に戦闘を開始するなど、外交と軍事の両面で活躍。
でも、井伊直政は戦後処理と江戸幕府の運営に携わりました。
功績を認められた井伊直政は、近江国澤山で18万石を与えられます。
ところが、慶長7年(1602年)、彦根城築城中に、佐和山城で42歳の若さで亡くなりました。
井伊直虎との関係は?
井伊直虎は井伊直政の叔母だと紹介しましたが、実はとても複雑な関係。
井伊直虎は井伊直政の父・井伊直親の許嫁(いいなずけ)でした。
ところが、父・井伊直満を殺された井伊直親は信州に逃亡し、二人の結婚は取り止めとなります。
結婚が取りやめとなった井伊直虎は出家しました。
その11年後、井伊直親は故郷に戻りましたが、出家した井伊直虎と結婚することはできません。
井伊直親は井伊直虎の父・井伊直盛の養子となって、奥山朝利の娘と結婚し、井伊直政を授かりました。
つまり、
① 井伊直政の父・井伊直親は井伊直虎の兄妹
② 井伊直虎は井伊直政の叔母
となりますが、実の叔母ではないんです。
結婚するはずだった男性の子どもを後見役として見守り続けた井伊直虎。
井伊直政にとって、井伊直虎は叔母であり、育ての母でもあったのではないでしょうか。
まとめ:井伊直政はイケメンの苦労人だった!
井伊直政の生い立ち、井伊直虎との関係を簡単にわかりやすく紹介しました。
家臣に祖父と父を殺され、自らも命を狙われる幼少期を送った井伊直政。
井伊家の期待を背負って、また、井伊直虎のサポートを受けて、井伊家再興に成功しました。
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