父・石川康正より徳川家康を選んだ石川数正の生涯と逸話

徳川家康の家臣まで一揆衆に加わった三河一向一揆。
この時改宗してまで徳川家康に仕えたのが石川数正です。

父・石川康正より徳川家康を選んだ石川数正生涯逸話を紹介します。

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石川数正の生涯

石川数正は天文2年(1533年)生まれ。
父・石川康正と母・松平重吉の娘との間に誕生しました。

① 石川数正の曾祖父・石川忠輔は徳川家康の曾祖父・松平信忠
② 石川数正の祖父・石川清兼は徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠
に仕えていました。

代々松平氏(徳川家)に仕えた石川家に生まれた石川数正は、徳川家康に仕える運命でした。

今川氏真から徳川家康の家族を取り戻す

天文11年(1543年)生まれの徳川家康より10歳年上だった石川数正。
今川家で人質生活を送ることとなった徳川家康の付き添い人として同行しました。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたのを機に、徳川家康は今川家から独立。

この時、今川家に住んでいた徳川家康の正室・築山殿、長男・信康、長女・亀姫は自然と人質になりました。
石川数正は今川義元の息子・今川氏真と交渉し、家族を徳川家康の元に戻すことに成功しました。

また、永禄5年(1562年)には、対立してきた織田信長と交渉。
徳川家康が織田信長と清洲同盟を結べるよう尽力しました。

三河一向一揆を鎮圧する

永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆で、父・石川康正は一揆衆となって徳川家康に反旗を翻しました。
一方、石川数正は浄土宗に改宗して、一向宗を捨ててまで徳川家康に従い、一揆鎮圧に貢献しました。

家老となる

石川康正が亡くなると、徳川家康の命により、石川数正の叔父・石川家成が家督を継ぎました。

おゆう
おゆう

というのも、石川家成の母は徳川家康の母・於大の方の姉である妙春尼。
石川家成と徳川家康は従兄弟だったからです。

徳川家康が石川家成に家督を継がせたのはもちろん建前。
石川数正を心から慕っていた徳川家康は家老(家臣の最高職)に任命し、酒井忠次と共に重用しました。

永禄10年(1567年)、徳川家康の長男・信康が元服すると、石川数正は信康の後見人になりました。

出奔して、豊臣秀吉に仕える

その後、
・元亀元年(1570年)の姉川の戦い
・元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い
・天正3年(1575年)の長篠の戦い
と、数々の戦に出陣。

武功をあげた石川数正は、天正7年(1579年)に切腹した信康に代わって岡崎城代を務めました。

ところが、天正13年(1585年)、石川数正は突然徳川家康を出奔し、豊臣秀吉に仕えることを選択。

豊臣秀吉は石川数正が家臣となったことを喜び、信濃松本に10万石の所領を与えました。

文禄2年(1593年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵を計画する中、石川数正は60歳で亡くなりました。

徳川家康を裏切ってしまった石川数正。
でも、子孫は関ヶ原の戦いで東軍につき、所領を安堵され、外様大名として信州松本藩を維持しました。

後に、大久保長康事件に連坐して改易されますが、連坐していなければ、石川数正の子孫は江戸時代を十分に生き抜くことができたと考えられています。

石川数正の逸話

今川家で人質生活を送っていた徳川家康。

今川義元から将来片腕として活躍することを期待され、徳川家康には家庭教師がつけられます。
でも、人質だった徳川家康の行動はある程度制限され、肩身の狭い幼少期を送っていました。

駿府で楽しみを見いだせない徳川家康に、石川数正は竹馬の乗り方を教えました。

坊っちゃん
坊っちゃん

なんと、使っていた竹馬は石川数正の手作り!

石川数正の熱心な指導のおかげか、竹馬に乗ることのできるようになった徳川家康。

2本の竹馬を石川数正と酒井忠次に例えて喜んだといわれています。

まとめ:石川数正は幼少期から42歳までの徳川家康を知っていた

父・石川康正より徳川家康を選んだ石川数正生涯逸話を紹介しました。

突然出奔し、豊臣秀吉を主君に選んだ石川数正。
それでも、石川数正は生涯の80パーセントを徳川家康に捧げました。

特に、父が三河一向一揆で剣を向けたにも関わらず、石川数正が味方についてくれた時は、徳川家康も嬉しかったのではないでしょうか。

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