徳川家康と正室・築山殿の間に誕生した長女・亀姫。
徳川家康の政略により、亀姫は16歳で奥平信昌に嫁ぎました。
徳川家康の長女・亀姫と奥平信昌が結婚した経緯とその裏でおふうに起きた悲劇を紹介します。
徳川家康の長女・亀姫と奥平信昌が結婚した経緯
徳川家康の長女・亀姫と奥平信昌が結婚したのは、天正4年(1576)年7月のこと。
奥平信昌は三河国にある亀山城(愛知県新城市)を本拠地とする奥平定能の長男。
二人が婚約したのは、元亀4年(1573年)6月とされていますが、この時期の三河国は甲斐国の武田信玄の侵攻を受けて大混乱していました。
② 二俣城の戦い
③ 三方ヶ原の戦い
で、徳川家康は武田信玄に大敗。清洲同盟の相手・織田信長は信長包囲網(越前国の朝倉義景や北近江の浅井長政)への対応で手一杯。
徳川家康は織田信長の支援を受けられずにいました。
そこで、徳川家康は三河国にいながら徳川家に従属していない武士を味方に引き入れようと考えました。
徳川家康が注目したのは武田家臣・奥平定能。
実は、奥平定能は元徳川家臣。
元亀元年(1570年)12月、徳川家康のもとを離れ、勢力を拡大していく武田信玄に寝返っていたんです。
よほどのメリットがなければ、一度徳川家を去った奥平定能が徳川家康に仕えるはずがありません。
そこで、徳川家康は次の3つのメリットを提示しました。
① 長女・亀姫を奥平定能の長男・奥平信昌に嫁がせる
② 領地を加増する
③ 奥平定能の娘を徳川家臣・本多広孝の次男である本多重純に入嫁させる
徳川家康からメリットを提示された時、実は、奥平定能は主君選びに悩んでいるところでした。
というのも、徳川家康に大打撃を与えてきた武田信玄は元亀4年(1573年)4月に亡くなっていたからです。
武田信玄の遺言により、武田信玄の死は公表されていませんでした。
でも、武田信玄に仕えていた奥平定能は武田信玄が亡くなったことを当然知っていました。
亡き・武田信玄の跡を継いだのは、四男・武田勝頼。
でも、武田勝頼には武田信玄のようなカリスマ性はなく、奥平定能は武田氏(武田勝頼)に引き続き仕えるか、別の主君を探すかと悩んでいたんです。
悩んでいるところに、徳川家康からメリットを提示され、奥平定能は徳川家康に仕えることを決意。
武田信玄は既に亡くなっていることを明かし、徳川家康に従属することを伝えました。
こうして、徳川家康が奥平定能に提示したとおり、亀姫と奥平信昌は結婚することになったんですね。
おふうに起きた悲劇
紹介したように、天正4年(1576)年7月に、亀姫は奥平信昌に嫁ぎました。
当時16歳だった亀姫は初婚でしたが、実は、当時21歳だった奥平信昌は再婚。
亀姫と婚約した時、奥平信昌には2歳年下のおふうという妻がいました。
紹介したように、奥平定能が徳川家康に仕えるのは2度目。
① 義娘・おふう(奥平信昌の妻)
② 次男・千丸(奥平信昌の弟)
を人質として差し出し、忠誠心を示していました。
亀姫と奥平信昌の結婚が決まると、奥平定能は奥平信昌とおふうを離縁させます。
天正元年(1573年)、奥平定能に裏切られた武田勝頼はおふうと千丸を磔(はりつけ)にして処刑。
おふうは人質として武田氏に差し出され、義父によって離縁させられ、最後は離縁した夫、離縁するきっかけをつくった義父のために、16歳の若さでこの世を去りました。
まとめ:おふうは奥平家存続のために処刑された
徳川家康の長女・亀姫と奥平信昌が結婚した経緯とその裏でおふうに起きた悲劇を紹介しました。
亀姫を迎えた奥平信昌は徳川家康の娘婿として活躍しましたが、その裏では、前妻・おふうが悲しい最期を迎えていました。
天正3年(1575年)の長篠の戦いの後、おふうの最期を悲しんだ徳川家康は、奥平定能の次女(おふうの妹)を異父弟・松平定勝の正室として迎えました。
おふう、そして、おふうの父・貞友も、少しは浮かばれたのではないでしょうか。
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