徳川家康が織田信長と清州同盟を結んでいたことは有名ですが、実は、上杉謙信とも同盟を結んでいたことをご存知でしょうか。
徳川家康と上杉謙信が同盟を結んだ背景とその内容、上杉謙信が武田信玄に書状を渡していた可能性を紹介します。
徳川家康と上杉謙信が同盟を結んだ背景
永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いで、駿河国の今川義元が織田信長に討たれると、今川義元の長男・今川氏真が跡を継いで今川氏12代当主となりました。
ところが、今川氏真には求心力がなく、徳川家康をはじめ、多くの今川家臣が離反。
今川氏は急速に衰退し、今川領である駿河国、遠江国は甲斐国の武田信玄から狙われることとなりました。
今川領を攻めるにあたって、東は相模国の北条氏康から、西は三河国の徳川家康から挟み撃ちにされないよう、武田信玄は徳川家康に同盟を結ぶことを提案。
永禄11年(1568年)、武田信玄と徳川家康は「今川氏真を討った暁には、大井川を境に東を武田信玄が、西を徳川家康が支配する」という条件で同盟を結びました。
ところが、徳川家康に断りなく、武田信玄は遠江国に攻め入ります。
同盟を一方的に破棄された徳川家康は怒り、武田信玄と戦う決心をしました。
武田信玄率いる武田軍は戦国最強と呼ばれていました。
永禄5年(1562年)に、徳川家康は織田信長と清州同盟を結んでいましたが、織田信長は徳川家康に援軍を送りませんでした。
・織田信長の長男・織田信忠と武田信玄の娘・信松尼(松姫)を婚約させ、友好関係を築いていた
からです。
織田信長のサポートを受けられないと判断した徳川家康は、長年にわたって武田信玄と対立していた越後国の上杉謙信に同盟を結ぶことを提案しました。
徳川家康と上杉謙信が結んだ同盟の内容
元亀元年(1570年)10月、徳川家康と上杉謙信は同盟を結びました。
同盟を結ぶにあたって、徳川家康が上杉謙信に提示した条件は、
① 武田信玄と断交する
② 上杉謙信と織田信長の仲をとりもつ
③ 織田信忠と信松尼の婚約を破談させる
という3つでした。
書状は武田信玄に渡っていた?
徳川家康から同盟の申し出を書状で受け取った上杉謙信は、武田信玄に書状を渡していたのではないかという見解があります。
天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて行われた川中島の戦いで、上杉謙信は武田信玄と12年間にわたって対立しました。
武田信玄を討ちたい上杉謙信にとって、徳川家康と同盟を結ぶことは決して悪くない話です。
その一方で、上杉謙信には、「誰の手も借りずに、武田信玄を討ちたい」という気持ちがありました。
上杉謙信は利より義を重んじる戦国武将として知られています。
永禄10年(1567年)、武田信玄が徳川家康と共に今川領に攻め込むと、今川氏真はその報復措置として塩止めを行いました。
塩は民の生活必需品ですが、海に面していない甲斐国、信濃国では塩がとれず、他国から搬入していました。
今川氏真によって、塩が手に入らなくなった甲斐国、信濃国の民は苦しい生活を強いられました。
苦境に立たされた武田信玄を救ったのが、上杉謙信でした。
上杉謙信は「卑怯な手を使って、今川氏真が武田信玄を討っても嬉しくない。私は正々堂々と戦って、武田信玄に勝ちたいのだ」と言って、越後国から甲斐国と信濃国に塩を送りました。
上杉謙信にとって、武田信玄は絶対に討ちたい敵であり、卑怯な手を使って失いたくない敵だったんです。
上杉謙信が徳川家康と同盟を結んだ背景には、徳川家康と結んだ同盟を一方的に破棄した武田信玄に対する怒りがあったと思いますが、「徳川家康の手を借りて、武田信玄を討ちたい」とは思っていなかった、「自らの手で武田信玄を討ちたい」と思っていたのではないでしょうか。
まとめ
徳川家康と上杉謙信が同盟を結んだ背景とその内容、上杉謙信が武田信玄に書状を渡していた可能性を紹介しました。
同盟を一方的に破棄して遠江国に攻め込んだ武田信玄に対抗するべく、徳川家康は上杉謙信と同盟を結びました。
上杉謙信と織田信長の仲をとりもつ、織田信長と武田信玄の縁組を破談させるなど、徳川家康が苦労する条件を自ら提示したことから、徳川家康の武田信玄に対する怒りが垣間見られます。
ただ、上杉謙信は徳川家康と武田信玄の戦いに積極的には関与しませんでした。
上杉謙信は自らの手で武田信玄を討ちたいと思っていたのかもしれませんね。
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