足利義昭が征夷大将軍となった35年後に、徳川家康も征夷大将軍となりました。
室町幕府15代将軍と江戸幕府初代将軍の二人には面識があったのでしょうか。
徳川家康と足利義昭の接点と徳川家康が織田信長追討令を断った理由を紹介します。
徳川家康は足利義昭と面識があった?
残念ながら、徳川家康と足利義昭の間に面識があったかどうかは定かではありません。
でも、二人は面識があったと考えています。
その理由は3つあります。
足利義昭は徳川家康に入洛のサポートを要請していた
室町幕府12代将軍・足利義春が亡くなり、長男・足利義輝が13代将軍となりましたが、間もなく家来に殺されてしまいます。
足利義輝の弟だった足利義昭は跡を継いで将軍となるものだと思っていましたが、14代将軍となったのは従兄弟・足利義栄でした。
永禄8年(1565年)、入洛を望んでいた足利義昭は徳川家康にサポートを要請しました。
徳川家康は足利義昭の要請に応じる姿勢を示していることから、この時点で面識があったかどうかは別にして、二人の間に関係が生じていたことが判ります。
徳川家康は上洛していた
永禄13年(1570年)1月、織田信長は諸大名に上洛するよう要請しました。
三河守だった徳川家康も当然要請を受け、徳川家康は上洛しました。
また、4月には、足利義昭の新御所の完成祝いとして、観世大夫と今春大夫による能興行が行われました。
徳川家康が能興行に参加していることから、徳川家康と足利義昭が顔を合わせている可能性は高いです。
二人は豊臣秀吉に仕えていた
元亀4年(1573年)7月、足利義昭は織田信長から京都を追放されてしまいます。
足利義昭は毛利輝元によって程され、備後国にある鞆の浦(広島県福山市)で暮らすこととなりました。
山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は九州征伐に乗り出します。
九州に向かう途中、豊臣秀吉は備後国で足利義昭と面会。
足利義昭は豊臣秀吉によって京都に戻ることを許され、追放されてから15年後の天正15年(1588年)に京都に戻った後、御伽衆として豊臣秀吉に仕えることとなりました。
一方、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いを経て、徳川家康は豊臣家に従うことを決意。
徳川家康は豊臣秀吉である大坂や京都に滞在する機会が増えました。
豊臣秀吉の側近として活躍することとなった徳川家康と足利義昭が顔を合わせている可能性は高いです。
また、足利義昭も肥前国名護屋城に出向き、朝鮮に渡る兵を慰労しました。豊臣秀吉によって開かれた宴会に、徳川家康と足利義昭は二人揃って出席しています。
なぜ織田信長追討令を断った?
永禄11年(1568年)、織田信長のサポートを受けて上洛した足利義昭。
上洛する前の足利義昭と織田信長の仲が良好だったのは言うまでもありません。
でも、上洛した後、足利義昭が織田信長を家臣として扱う一方、織田信長は足利義昭を主君として認めていませんでした。
そして、織田信長は足利義昭を非難する書状を突き付け、二人の仲は悪くなります。
織田信長を討ちたいと考えた足利義昭は、越前国の朝倉義景や北近江の浅井長政、石山本願寺や甲斐国の武田信玄に声をかけ、織田信長の拠点である尾張国、美濃国を包囲しました。
尾張国、美濃国の東に位置する三河国の徳川家康が加われば、信長包囲網はより強固なものとなります。
そこで、清洲同盟を破棄して、武田信玄・勝頼と和睦し、織田信長を討つよう、徳川家康に要請しました。
ところが、徳川家康は足利義昭の要請に応じませんでした。
また、楽市楽座令を発して、城下町を繁栄させました。軍事面、経済面において、他国をリードしていた織田信長の強さに、徳川家康は惚れていたのかもしれません。
1573年(元亀4年)に勃発した三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗しても、徳川家康が織田信長を見放すことはありませんでした。
まとめ
徳川家康と足利義昭の接点と徳川家康が織田信長追討令を断った理由を紹介しました。
二人の間に面識があったかどうかは定かではありませんが、足利義昭が徳川家康に入洛のサポートを要請していた、徳川家康が上洛していた、二人が豊臣秀吉に仕えていたことから、面識があった可能性は高いと思います。
徳川家康が信長包囲網に加わっていたら、足利義昭は将軍としての力を回復していたかもしれませんが、徳川家康は天下を統一していなかったかもしれませんね。
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