780年に、唐の第12代皇帝・徳宗(李适)のもとで、宰相を務めていた楊炎が提案した両税法。
世界史の教科書に必ず登場する重要用語ですが、どのような法制度なのでしょうか。
両税法の概要と背景、意義を紹介します。
両税法の概要
両税法とは、唐の第12代皇帝・徳宗(李适)のもとで、宰相・楊炎が提案した税法です。
当サイトの記事「【唐】徳宗(李适)ってどんな人?父・代宗と母・沈氏の悲しい別れとは?」でも紹介していますが、両税法の特徴は次の5つです。
② 農民は資産額、耕地面積によって税額を決定する
③ 商人は資産額によって税額を決定する
④ 金銭で納付する
⑤ 歳出を計算して、税額を決定する
楊炎が両税法を提案した背景
楊炎が両税法を提案した背景は2つあります。
租庸調による徴税体系の限界
安史の乱が勃発する前、唐では租庸調という租税制度が採用されていました。
田を与えられた丁男(ていだん。21歳から59歳の男子)が、租として粟2石を、調として絹2丈と綿3両(もしくは、麻布2.5丈と麻糸3斤)を納め、庸として年間20日、土木事業などの労役に服しました。
ところが、玄宗の在位中に、官吏や土地所有者(地主)が賄賂を受け取って、戸籍を偽造するようになりました。
賄賂を贈る余裕のあった丁男は、戸籍を偽造してもらって、納税から免れることができたんです。
一方、賄賂を贈る余裕のない丁男(小農民)は没落し、本籍地を離れて逃亡。
小農民が暮らしていた地域は破綻し、穀物を収穫できる田は減り、国は税を徴収することができなくなりました。
また、長安や洛陽などの首都圏に暮らす丁男にとって、租庸調は過酷な租税制度で逃亡する丁男が続出しました。
というのも、田舎に比べて、首都圏の人口密度は高く、首都圏に暮らす丁男と田舎に暮らす丁男に支給される田の面積に格差が生じているにも関わらず、同じように税を徴収されていたからです。
安史の乱が勃発した後、土地に関する問題は更に悪化。
丁男に支給された田の面積は不平等になり、均等に税を徴収する租庸調は限界を迎えました。
栽培技術の向上
実は、租庸調は北周(556年から581年)で導入され、唐で確立した租税制度。
200年も経てば、農業の環境は大きく変わります。
南朝・北朝に分かれていた南北朝時代は、南朝では水田を用いた麦の栽培が、北朝では畑作を用いた粟の栽培が行われていました。
隋が南北を統一すると、南北関係なく、麦、粟の栽培が行われるようになりました。
南北朝時代に比べて、唐の栽培技術は大きく向上し、粟の収穫時期が冬から秋へ、麦の収穫時期が春から夏へと早くなりました。
また、粉食と呼ばれる小麦粉を使った料理が定着し、麦の需要が高まり、粟に比べて麦が多く栽培されました。
収穫時期が早くなった、また、栽培される穀物の比重が変わったにも関わらず、納税時期、量を変えなかったため、税として納める穀物の質が悪化していました。
両税法の意義
両税法の意義は2つあります。
国による人身的支配の弱まり
紹介したように、両税法では、資産額、耕地面積によって税額を決定しました。
両税法を採用する前と後で何が変わったの?
両税法を採用する前は、課税対象となる人を把握して課税していました。
両税法を採用した後は、戸・資産を把握して課税しました。
つまり、課税対象が人から土地・資産に変わったんです。
これは、安史の乱により国力を失った唐が人身的支配を弱めた、弱めざるを得なかったことの現れですね。
佃戸の前身・小作農の誕生
税を納めさえすれば、土地を所有することが認められたため、土地所有者は堂々と土地を所有し、土地所有者は小作農と呼ばれる農民に土地を与えて、小作農は土地所有者に地代を納めました。
宋(960年から1127年)では佃戸と呼ばれて、一般化しました。
まとめ
両税法の概要と背景、意義を紹介しました。
安史の乱が勃発したことにより、租庸調による徴税体系は限界を迎えていました。
また、北周で導入されていた租庸調は、200年以上も経った唐に適した租税制度ではありませでした。
両税法では、向上した栽培技術に合わせて、夏(6月)と秋(11月)に税を徴収したり、資産額、耕地面積によって税額を決定したりしました。
両税法の採用により、国による人身的支配が弱まり、また、佃戸の前身・小作農が誕生しました。
楊炎が両税法を提案せず、租庸調が用いられ続けていたら、唐以降経済は発展しなかったかもしれませんね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!