平均寿命の世界ランキングで常に上位の日本。
現代の日本人男性の平均寿命は81歳前後ですが、徳川家康の生きた戦国時代の日本人男性の平均寿命は40歳ぐらいでした。
現在のように、医療技術も高くないし、戦で亡くなる場合もあるので、平均寿命が短いのは当然ですね。
でも、戦国時代を生き抜き、江戸幕府を開いた徳川家康はなんと73歳まで生きました。
73歳まで生きた健康オタク・徳川家康の食事とそれにまつわる面白いエピソードを紹介します。
健康オタクだった徳川家康の食事
徳川家康は織田家、今川家で幼少期を過ごしました。
人質としてさまざまな行動制限がかけられる中、徳川家康が毎日欠かさず続けていたのは読書。
中でも、医学や薬学に強い関心をもち、薬を自ら調合して飲んでいたといわれています。
徳川家康に影響を与えたのは読書だけではありません。
会津出身の僧・天海です。
会津では昔から納豆づくりが盛んで、納豆を味噌汁に入れて食べていました。
天海の食生活を知った徳川家康は天海を呼び寄せ、食生活について議論を交わしました。
地元で収穫した食材を、食材そのものの美味しさを活かして食べるようにアドバイスしたんです。
粗食するよう勧めた天海自身はなんと108歳まで生きたのだとか。
天海からこのようなアドバイスを受けた徳川家康は地元の旬な食材を積極的に食べました。
中でも、徳川家康がよく食べたのはイワシ。
丸干ししたり、煮付けたり、いろいろな調理方法でイワシを食べていたようです。
また、食を通じて健康を維持することはもちろん、食を通じて体調を崩さないことにも努めました。
出陣前に食べる陣中食で、干し飯という炊いたご飯を天日干しした保存食がありました。
万が一腐敗していたらと考えて、殺菌目的で加熱したんですね。
面白いエピソード
健康に人一倍気を遣っていた徳川家康。
健康オタクだった徳川家康のビックリするような面白いエピソードが伝わっています。
織田信長からもらった桃を食べなかった
真冬のある日、織田信長から大きな桃が届きました。
ご存知のように、桃の旬は夏。
冬でも収穫できる桃をわざわざ取り寄せたか、保存したかして、徳川家康を喜ばせようとしたんですね。
今食べられる桃は旬外れだとして、一口も食べなかったんです。
徳川家康と織田信長は清州同盟を結んでいましたが、二人の関係は対等ではなく、織田信長が優位でした。
普段は織田信長に気を遣っていた徳川家康も、この時ばかりは気を遣っていられなかったんですね。
ただ、織田信長の贈り物をそのまま捨てるわけにはいかないので、徳川家康は家臣に桃を分け与えました。
徳川家康は自分の身体だけでなく、家臣の身体も大切にしていました。
家臣に旬外れの桃を分け与えたのは、苦渋の決断だったかもしれません。
佃煮を普及させた
ご飯のお供、お酒のアテに欠かせない佃煮。
実は、佃煮を全国に普及させるきっかけを作ったのは徳川家康です。
天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長を討つ、本能寺の変が起こります。
堺にいた徳川家康は織田信長が討たれたと聞いてすぐ、岡崎城へ戻ることにしました。
どうしたものかと、徳川家康が困っていると、近くの佃村に住む庄屋・森孫右衛門が船を出してくれることになりました。
船に乗ることができると分かった徳川家康はホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、ある問題に気付きます。
岡崎城に戻らなければいけないという焦りと織田信長が討たれたショックから、食事をすっかり忘れていたんですね。
徳川家康が食べ物を持っていないと知った佃村の人々は急いでお弁当を作り、徳川家康に渡しました。
お弁当に入っていたおかずは小魚の煮物。
つまり、佃煮だったんです。
漁で生計を立てていた佃村の人々は、万が一魚が釣れなかった時に備えて、小魚を煮て保存食を作っていました。
日持ちがするうえに、栄養価の高い小魚の煮物は徳川家康のお気に入りとなりました。
慶長8年(1603年)、江戸幕府を開いた徳川家康は、佃村の人々を大坂から江戸に呼び寄せました。
そして、隅田川の河口を埋め立て、家を建てて、佃村の人々を住まわせました。
徳川家康が佃村の人々を江戸に呼び寄せた目的は、恩返しと小魚の煮物の普及。
海や川で漁をする権利を与え、新鮮な魚を江戸城に運ばせて、余った魚を店で販売させました。
恩返しと小魚の煮物の普及が目的だったので、徳川家康は税を課しませんでした。
徳川家康の望みどおり、佃村の人々によって小魚の煮物は普及。
やがて、佃村の人々が出した店は魚河岸(卸売市場)に発展し、佃村の人々が移り住んだ隅田川の河口付近は佃島と名付けられました。
400年以上の時が経ちましたが、今でも佃島には佃煮を扱う店が並んでいます。
徳川家康の恩返しは食文化、そして、町をつくり上げたんですね。
八丁味噌をお取り寄せしていた
地元で収穫した食材を食べることにこだわっていた徳川家康にも、お取り寄せしてまで食べたいものがありました。
八丁味噌です。
八丁味噌は岡崎で昔から親しまれてきた赤味噌で、岡崎を故郷とする徳川家康の思い出の味。
八丁味噌は栄養価が高く、長期保存ができて便利な食材だったため、徳川家康は家臣にも八丁味噌を使うよう勧め、陣中食にも取り入れました。
まとめ:徳川家康を見習って健康寿命を延ばそう!
73歳まで生きた健康オタク・徳川家康の食事とそれにまつわる面白いエピソードを紹介しました。
健康に人一倍気を遣った徳川家康は、当時の平均寿命を30年以上も上回る73歳まで生きました。
徳川家康の長寿の秘訣は粗食と正しい調理方法。
洋食、中華料理が日本の食卓に定着して以降、日本人は塩分、油を摂り過ぎているといわれています。
徳川家康の食事を見習ってみるのもいいかもしれませんね。
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