犬居城主・天野藤秀と元主君・徳川家康の一ノ瀬の戦いと大久保忠世の奮戦

武田信玄の三河侵攻により、領地を奪われてしまった徳川家康。
そこで、徳川家康は犬居城を攻め、武田氏から領地を取り返すことにしました。

徳川家康犬居城主・天野藤秀一ノ瀬の戦い大久保忠世の奮戦を紹介します。

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徳川家康と犬居城主・天野藤秀の一ノ瀬の戦い

一ノ瀬の戦いとは、天正2年(1574年)4月6日に、犬居城主・天野藤秀と徳川家康の間に勃発した戦いを指します。

犬居城主・天野藤秀は裏切り者だった!

遠江天野氏は鎌倉時代中期から遠江北部を拠点としていた武家です。

戦国時代に入ると、今川氏に仕えましたが、今川義元が織田信長に討たれると状況は一変。

徳川家康と武田信玄が同盟を結び、今川領を侵攻します。
今川義元の跡を継いだ今川氏真は領地を次々と奪われてしまいました。

こうして、今川氏の支配下にあった犬居城も危険にさらされることとなりました。

犬居城主・天野藤秀は今川家臣として籠城する一方、生き残る道を探します。

そして、「徳川家康と武田信玄は将来対立する」と想定して、
① 徳川家康
② 武田信玄
の二人と内通し、表向きは徳川家康に従う姿勢を見せました。

天野藤秀の予想は敵中。

徳川家康と武田信玄の間で、一言坂の戦い、二俣城の戦いが繰り広げられます。
そして、三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に大敗しました。

すると、天野藤秀は徳川家康を見限ります。
長男・天野景康を人質として差し出し、武田氏に仕えました。

徳川家康は退却中に天野藤秀の追撃を受ける

武田氏に領地を奪われた徳川家康は、軍を立て直して、領地の回復に乗り出します。

天正2年(1574年)3月、天方城(静岡県周智郡)を攻略し、軍を置きました。

天方城に軍を置いた理由は、天野藤秀が城主を務める犬居城を攻略するため。
天方城と犬居城は25kmも離れていないため、戦の拠点として最適だったんです。

犬居城からわずか1kmの瑞雲院に陣を構えました。

犬居城と瑞雲院は気田川で隔てられています。

気田川を渡って、犬居城を攻めるつもりでした。
ところが、徳川家康は犬居城を攻めることなく退却します。

まさに目と鼻の先の犬居城。

せっかくここまで準備を整えたのに、何故、徳川家康は退却したのでしょうか。

徳川家康が攻めることなく退却したのは、
① 豪雨が続いて、気田川を渡れなかった
② 兵糧が尽きた
からです。

徳川家康は天方城に引き返しました。

すると、天野藤秀が退却する徳川軍を追撃。

この戦いは一ノ瀬という地域で勃発したため、一ノ瀬の戦いと呼ばれています。

家臣・大久保忠世、叔父・水野忠重に殿(しんがり)を任せ、徳川家康は三倉集落の庄屋の家に逃げ込みます。
そして、天野軍が去ったのを見計らって、天方城に退却しました。

大久保忠世の奮戦

徳川家康が天方城に退却する際、
① 大久保忠世
② 徳川家康の叔父・水野忠重
の二人が殿を務めました。

瑞雲院から天方城に続く道は、まさに山あり谷あり。
急な下り坂が続くため、敗走する徳川軍より高い位置にいる天野軍が有利でした。

大久保忠世は天野軍によって崖に突き落とされてしまいます。

でも、大久保忠世は崖を這い上がって、突き落とした兵を討ちました。

一ノ瀬の戦いの中では、大久保忠世の弟・大久保忠核が24歳の若さで討死しました。

大久保忠世は11人兄弟の長兄でしたが、
・大久保忠包は永禄4年(1561年)の藤波畷の戦いで
・大久保忠寄は元亀4年(1573年)の三方ヶ原の戦いで
討死していました。

またもや弟が討死した大久保忠世は、「生きて、敵を討ちたい」という気持ちが人一倍強かったのかもしれません。

まとめ:天野藤秀はやっぱり元家臣だった!

徳川家康犬居城主・天野藤秀一ノ瀬の戦い大久保忠世の奮戦を紹介しました。

犬居城を攻撃せずに退却する徳川家康を容赦なく追撃した天野藤秀。
天野藤秀が過去に徳川家康に従ったのは、あくまで表向きだったんですね。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

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