徳川家康が織田家と今川家で送った人質生活とは?

4歳から18歳までの多感な時期を、織田家、今川家の人質として過ごした徳川家康。

織田家、今川家で、徳川家康はどのような扱いを受けたのでしょうか。

徳川家康織田家今川家で送った人質生活について紹介します。

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織田家で送った人質生活

思いもよらない形で、織田家の人質となった徳川家康。

織田家の人質となったからといって、徳川家康が織田信秀のもとで過ごしたわけではありません。

まず、徳川家康は熱田の豪商・加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)のもとで幽閉されました。

おゆう
おゆう

残念ながら、どのような幽閉生活を送ったのかは判っていません。

でも、慶長8年(1603年)、徳川家康は加藤家に140余石の土地を与えています。

これは、加藤家への感謝の気持ちを表したもの。
奢り高ぶることなく、半世紀以上の時を経て、徳川家康は加藤家に感謝を述べています。
加藤家で送った幽閉生活が過酷なものではなかったと推察できるのではないでしょうか。

加藤図書助順盛のもとで一年間の幽閉生活を送った後、徳川家康は織田家の菩提寺・万松寺に移ります。

徳川家康が万松寺で過ごした期間は2年。

この2年の間に、後に清洲同盟を結ぶ織田信長と交流があったといわれています。

徳川家康が織田家でどのような人質生活を送ったのか、詳しくは判っていません。

ただ、天文18年(1549年)3月6日に徳川家康の父・松平広忠が亡くなりますが、父に会うのを許されなかったことから、ある程度の行動制限が行われていたのではないかと思います。

親の死に目に会えないというのは、戦国時代ではよくあったことなのかもしれません。
でも、幼くして、親と離れ離れになった徳川家康としては、一目でもいいから会いたかったでしょうね。

今川家で送った人質生活

天文18年(1549)年11月18日、織田家と今川家の間で人質交換が行われます。
徳川家康はついに今川家で人質生活を送ることとなりました。

この時、徳川家康はわずか8歳でした。
でも、亡き父の跡を継いで、岡崎城主という肩書を背負って、今川家の人質となりました。

徳川家康が住んだのは、駿府にある小梳(おぐし)神社の近くです。

坊っちゃん
坊っちゃん

人質生活と聞くと、
・狭い部屋に閉じ込められる
・食事や行動が制限される
といったかわいそうな情景を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

でも、徳川家康が今川家で送った人質生活は想像以上に温かいものでした。

祖母・源応院(華陽院)と一緒に過ごすことを許された

健康オタクで知られる徳川家康ですが、幼い頃はとても病弱でした。

そこで、今川義元は徳川家康の祖母・源応院(華陽院)が付き添うことを許しました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

親と離れて、知らない土地で暮らすことになった徳川家康。
徳川家康にとって、祖母と一緒に過ごせるなんて幸せなことでした。

源応院は母方の祖母。
母・於大の方の兄・水野信元が今川家を裏切って織田家に寝返ったことから、松平広忠は於大の方と離縁していました。

つまり、今川義元は裏切り者の水野信元の母を、徳川家康と一緒に迎え入れたことになります。
今川義元は心が広かったのかもしれませんね。

家庭教師をつけてもらった

更に、今川義元は徳川家康に家庭教師をつけます。
小梳神社の近くにあった智源院の住職・智短和尚に書道を学ばせたんです。

そして、更に、今川家の軍師であり、臨済寺(静岡市葵区)の僧でもある太原雪斎に軍法を学ばせました。

今川義元のこういった行動は、徳川家康の将来を考えてのもの。
今川義元は徳川家康を側近候補として期待していたのかもしれません。

亡き父の墓参りを許された

弘治元年(1555年)、徳川家康は今川義元のもとで元服しました。

元服とは、今でいう成人式です。
※18歳や20歳を迎えて行うわけではなく、当時は12歳から16歳の間に行うのが一般的でした。

元服の儀式では、前髪を剃ったり、髪を結ったり、烏帽子を被ったりします。

① 後に正室となる築山殿の父・関口氏純(親永)が徳川家康の額の上に生えている前髪を剃る
② 今川義元が烏帽子を被せる
などしました。

徳川家康の幼名は松平竹千代でしたが、今川義元から一文字もらって松平元信と名前を改めました。

おゆう
おゆう

ややこしくなるので、こちらでは、徳川家康と呼びます。

元服した翌年の弘治2年(1556年)、亡き父・松平広忠の墓参りをする目的で、徳川家康は岡崎城に戻ることを許されました。

岡崎城主は徳川家康でしたが、今川家の人質となっているため、今川家臣が岡崎城代を務めていました。

岡崎城に戻った徳川家康は、城主の座る本丸ではなく、二の丸で過ごすことにしました。

松平広忠の後継者である徳川家康が本丸で過ごさなかったのは、今川義元の機嫌を損ねないため。
岡崎城での徳川家康の行動は今川家に報告されます。
人質の身で今川家の家臣を差し置き、本丸で過ごしたら、今川義元の機嫌を損ねてしまうかもしれません。

徳川家康の辛抱強さがうかがえるエピソードですね。

今川義元の姪・瀬名姫(築山殿)と結婚した

弘治3年(1557年)、今川義元は姪・瀬名姫(築山殿)を徳川家康に嫁がせ、姻戚関係を結びました。

この後、徳川家康は祖父・松平清康から一文字もらって、松平元康と名前を改めました。

まとめ:織田家は厳しく、今川家は優しい

徳川家康織田家今川家で送った人質生活について紹介しました。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれるまで、徳川家康は今川家で人質生活を送りました。
徳川家康が今川家で送った人質生活は12年間にも及びます。

祖母と一緒に過ごすことを禁止されていたら、家庭教師をつけてもらっていなかったら…
徳川家康は今川家で何も学ぶことなく独立することとなっていたかもしれません。

徳川家康が江戸幕府を開くまでの力を身につけられたのは、今川義元の配慮があったからかもしれませんね。

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