なぜ玄宗は楊貴妃に溺れた?傾国の美女と呼ばれる理由と唐の崩壊

中国の歴史の中で、最も豊かで華やかな文化を誇った東アジアの巨大帝国・唐。
国を引っ張り、絶頂期を築き上げたのが、第9代皇帝の玄宗(李隆基)です。
玄宗は則天武后と韋皇后がもたらした災いを取り払い、国に平和と繁栄をもたらしました。

女官
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ところが、玄宗の後半の人生は楊貴妃との出会いで一変します。

玄宗は楊貴妃を愛するあまり、政務を放棄。
その結果、国は大混乱に陥り、やがて崩壊の道をたどることになりました。

かつては名君だった玄宗が、なぜ楊貴妃にベタ惚れしてしまったのでしょうか。

玄宗が楊貴妃に夢中になった理由、二人の愛が歴史に与えた影響をわかりやすく紹介します。

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なぜ玄宗は楊貴妃におぼれた?

世界三大美女の一人に数えられる楊貴妃。
でも、玄宗が楊貴妃に溺れた理由は、見た目が美しかったからだけではありません。

そこには、玄宗が抱えていた孤独や共通の趣味による一体感がありました。

最愛の女性を亡くし、玄宗は孤独を感じていた

玄宗には正室・王皇后がいましたが、最も愛していたのは側室・武恵妃。
武恵妃との間に7人もの子供を授かりました。

でも、武恵妃は40歳の若さで亡くなります。
玄宗は武恵妃の死を悲しみ、何をしても心の晴れない日々が続きました。

当時、玄宗は既に50代半ば。
皇帝という絶対的な権力者でありながら、深い孤独と虚無感に襲われていました。

そんな失意のどん底にいた玄宗の前に現れたのが、楊玉環、後の楊貴妃でした。

音楽とダンスが玄宗と楊貴妃を結ぶ

楊貴妃は音楽、楽曲、歌舞の才能の持ち主。
実は、玄宗も芸術肌で、自ら楽器を演奏したり、作曲したりするほどでした。

女官
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玄宗が作った曲に合わせ、楊貴妃が美しく舞う。
二人は皇帝・側室という関係であり、芸術を理解し合えるパートナーでもありました。

実は、楊貴妃は玄宗と武恵妃の間に生まれた李瑁の結婚相手。
つまり、玄宗にとって楊貴妃は義理の娘にあたります。

絶対に手を出してはいけない相手ですが、玄宗は楊貴妃への気持ちを断ち切れません。
そこで玄宗は、楊貴妃を出家させて、李瑁との婚姻関係をリセットさせます。

玄宗にとって、楊貴妃は周囲から批判されても手に入れたい大切な存在でした。

楊貴妃が傾国の美女と呼ばれる理由

世界三大美女の一人に数えられる楊貴妃。
一方で、楊貴妃は「傾国の美女」とも呼ばれています。

「傾国の美女」は国を傾ける(ダメにする)ほどの美貌をもつ女性を指す言葉。

楊貴妃が「傾国の美女」と呼ばれるのには、どのような理由があるのでしょうか。

美貌を保つための贅沢

当時の美女の定義はふくよかで健康的な女性。
楊貴妃はこの美女の定義にピッタリあてはまる、真っ白な肌の持ち主でした。

楊貴妃はその美しさを保つために、莫大なお金を費やしました。
有名なのが、南国フルーツ「ライチ」のお取り寄せエピソードです。

楊貴妃の大好物であるライチは数日で傷んでしまうデリケートな果物。
新鮮なライチを食べさせたかった玄宗は、遠くから都(長安)まで早馬を連日走らせました。

女官
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馬が砂煙を上げて走ってくるのを見て、楊貴妃がニッコリ笑った。
みんなはそれを見て、大好きなライチが届いたのだと知った。

という有名な詩が残っています。

玄宗が許した楊貴妃の贅沢は国の財政を圧迫し、国民が不満をためる原因になりました。

親戚のえこひいきと、政治の腐敗

楊貴妃自身は表舞台に立って悪だくみをするようなタイプではありません。
問題は楊貴妃の兄姉と従兄。

楊貴妃の3人の姉は国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられました。
従兄の楊国忠は実力がないにもかかわらず、コネで御史中丞に昇進。

玄宗が大事にしてきた実力主義の人材登用制度は崩壊。
コネと賄賂で出世できるようになった国は民の不信感でいっぱいになりました。

安禄山との危険な関係

北方の国境を守る軍隊のリーダー・安禄山。
安禄山は身体が大きくユーモアがあり、言葉巧みに玄宗と楊貴妃に取り入りました。

楊貴妃は安禄山を養子として迎え入れ、安禄山は宮廷を自由に出入りするようになります。

玄宗と楊貴妃は安禄山を我が子のように可愛がり、信頼しました。
やがて、安禄山は唐の全軍隊の約3分の1に相当する兵力をもつことになります。

この過剰なえこひいきが、後に紹介する最悪の結果を招きました。

唐の崩壊

楊貴妃を愛し、政務を放棄した玄宗。
政務を任されたのは、楊貴妃の従兄である楊国忠で、軍事を任されたのは安禄山でした。

安史の乱の勃発

朝廷で権力を握る楊国忠と地方で強大な軍事力を握る安禄山は激しく対立。
楊国忠は安禄山の悪口を玄宗に吹き込み、安禄山を失脚させようと試みます。

危機感を覚えた安禄山は、天宝14載(755年)に挙兵。
唐が衰退の一途をたどるきっかけになった安史の乱です。

長年の平和ボケと政治の腐敗により、都の守備軍はすっかり弱体化していました。

安禄山率いる最強の軍隊はすさまじい勢いで唐の主要都市を落とします。
そして、玄宗と楊貴妃がいる都・長安へと迫ってきました。

馬嵬駅の悲劇と楊貴妃の最期

反乱軍が迫る中、玄宗は楊貴妃や楊国忠、護衛する兵を連れて、命からがら逃亡します。

その途中、馬嵬という宿場町に差し掛かった時。
疲れと飢え、将来への不安から、兵の怒りが爆発しました。

女官
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兵士は楊国忠を斬り、
「全ては楊貴妃のせいです。
楊貴妃を処刑しなければ、これ以上皇帝をお守りすることはできません」
と迫りました。

玄宗は楊貴妃を必死にかばいましたが、兵の怒りはおさまりません。

観念した玄宗は涙を流し、側近に命じて、楊貴妃を仏堂の前の木で首を吊らせて殺しました。

この時、楊貴妃は38歳。
玄宗の寵愛を独占し、絶大な権力を誇った「傾国の美女」のあまりにも儚い最期でした。

玄宗の退位と輝きを失った唐の終焉

楊貴妃を失った玄宗は、完全に生きる気力を失いました。
逃亡の途中で息子の李亨が独断で即位したため、玄宗は突然退位することになります。

反乱は周辺民族の援助を得て鎮圧されましたが、唐は10年間の戦で荒廃してしまいました。

朝廷の権力は落ち、各地の軍事リーダーたちが勝手に振る舞うようになります。
唐がかつての輝きを取り戻すことはありませんでした。

都に戻った玄宗は、かつて楊貴妃と過ごした宮廷で晩年を過ごします。
楊貴妃の肖像画を見つめながら涙を流し、寂しくこの世を去りました。

二人の悲劇の愛を題材に、後に白居易は「長恨歌」を作ります。
「長恨歌」は日本に伝わり、平安時代の日本文学に大きな影響を与えました。

まとめ:玄宗と楊貴妃の愛の代償は唐の崩壊

玄宗が楊貴妃に溺れたのは、単なる一目惚れではありません。
愛する武恵妃を失った玄宗が楊貴妃に求めたのは「芸術を通じた心の癒やし」でした。

楊貴妃と過ごした華やかな日々は、玄宗の後半の人生に彩りを与えたに違いありません。
ただ、国を背負う玄宗が楊貴妃への愛を最優先にした代償はあまりにも大き過ぎました。
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