618年から907年まで続いた唐。
唐は中国史上最も長く続いた王朝です。
この290年の間に、貞観の治、開元の治と呼ばれる治世があります。
この2つの治世は世界史の重要用語ですが、貞観の治、開元の治とはどのような治世なのでしょうか。
貞観の治と開元の治、そして、2つの違いを紹介します。
貞観の治とは?
唐の第2代皇帝・太宗が治めた627年から649年までの23年間を貞観の治と呼びます。
貞観とは627年に定められた元号です。
23年もの間、同じ元号が続くというのはとても珍しいこと。
この23年間がどれだけ安定していたかが分かりますね。
隋の第2代皇帝・煬帝の暴政により、国は疲弊していました。
そこで、太宗は宰相・房玄齢、杜如晦などの優秀な臣下を集め、アドバイスを積極的に受け入れて改革を行いました。
貞観の治のポイントは3つです。
均田制
太宗は北魏の孝文帝が施行した均田制を採用しました。
唐の均田制では、21歳から59歳の男性(丁男)と18歳以上の男性(中男)に54500㎡の土地を支給しました。
このうち、5分の1が子孫に受け継ぐ永業田で、桑やナツメを植えることを、5分の4が返還しなければいけない口分田で、穀物を植えることを義務付けました。
租庸調制
丁男を対象に、租、調、役、雑徭の税を課しました。
調:幅約55㎝×長さ約6mの絹織物と125ℊの綿、もしくは、幅約55㎝×長さ約7.5mの麻布と1788ℊの麻糸
役:20日間
雑徭:40日間
府兵制
地方の折衝府が、州の丁男から800人の兵士を選抜し、訓練しました。
任務中は税役は免除されましたが、任務がない時は農民として働きました。
民の生活を安定させ、国内の治安維持に努めた他、敵対してきた突厥や吐蕃などの異民族を征討して、領土を拡大しました。
貞観の治で行われた太宗の政治は、長期にわたって、政治の参考書に用いられました。
開元の治とは?
唐の第9代皇帝玄宗が治めた713年から741年までの28年間を開元の治と呼びます。
開元とは713年に定められた元号です。
玄宗は宰相・姚崇、宋璟と共に、政治改革を行いました。
太宗が用いてきた均田制は崩壊しつつあったため、逃げた民を調査して戸籍を精査する括戸政策を行い、税収を回復させました。
その他、開元の治のポイントは2つです。
募兵制
太宗は兵農一致である府兵制を採用していましたが、玄宗は兵士を募る募兵制に切り替え、民の生活負担を軽減しました。
集まった兵士には、国から給与を支払い、兵士の管理は折衝府ではなく軍鎮に、軍鎮の管理は藩鎮に、藩鎮の管理は節度使に任せました。
節度使
異民族対策として、玄宗は節度使を辺境に配備しました。
有効な政策をどんどん打ち出し、国内は活性化。
首都・長安の人口は100万人規模となり、ソグド人やアラビア人などの商人が集まり、長安は世界有数の国際都市となりました。
また、李白や杜甫など、唐を代表する詩人が誕生し、文化も大きく発展しました。
開元の治が741年に終わりを告げたのは、玄宗が楊貴妃を寵愛し過ぎたためです。
玄宗は楊貴妃との時間を何よりも優先し、朝廷に顔を出さなくなりました。
政治は宰相陣に任せたため、朝廷に混乱が生じ、その混乱は国へと拡大。
755年には、安史の乱が起きました。
763年に乱を鎮圧するも、唐は国力をすっかり失ってしまい、衰退の一途をたどることになりました。
貞観の治と開元の治の違いは?
貞観の治、開元の治について、それぞれ紹介しましたが、違いを簡単にまとめると、
【皇帝】
唐の第2代皇帝・太宗
【政策や結果】
・均田制、府兵制を採用
・敵対してきた突厥や吐蕃などの異民族を征討して、領土を拡大
【皇帝】
唐の第9代皇帝・玄宗
【政策や結果】
・府兵制から募兵制に切り替え
・節度使を辺境に配備して、異民族の侵入を防止
・李白や杜甫など、唐を代表する詩人が誕生し、文化が大きく発展
となります。
まとめ
貞観の治と開元の治、そして、2つの違いを紹介しました。
貞観の治の主役は太宗、開元の治の主役は玄宗です。
太宗と玄宗はカリスマ性溢れる皇帝だったことに間違いありませんが、二人を支えた宰相も忘れてはいけません。
貞観の治、開元の治について、詳しく知りたいと思うようになったら、太宗を支えた房玄齢、杜如晦、玄宗を支えた姚崇、宋璟について調べてみるのもいいかもしれませんね。
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