皇帝祭祀の一つである郊祀。
唐では、都・長安の南郊、北郊で郊祀が行われましたが、則天武后は長安と洛陽の南郊で郊祀を行いました。
何故、長安と洛陽の南郊で郊祀を行ったのでしょうか。
則天武后が長安と洛陽で郊祀を行った意外な理由を紹介します。
郊祀って何?
冒頭で紹介したように、郊祀(こうし)とは、皇帝が行う祭祀・皇帝祭祀の一つです。
皇帝祭祀の歴史は古く、秦の始皇帝が始めたとされています。
皇帝祭祀には、
① 皇帝の祖先を祭る宗廟で行われるもの
② 都の郊外で行うもの
の2つがあり、後者・都の郊外で行う皇帝祭祀を郊祀と呼びます。
更に、郊祀は天の主宰神を祭る南郊祀、地の自然神を祭る北郊祀の2つに分けられます。
南郊祀は冬至に都の南郊で、北郊祀は夏至に北郊で行われていました。
則天武后が長安と洛陽で郊祀を行った意外な理由
682年、唐の第3代皇帝・高宗が崩御する前年、則天武后は高宗と共に洛陽に滞在していましたが、690年に則天武后が即位してから11年が経った701年、則天武后は長安に戻りました。
682年から、洛陽にずっと滞在していた則天武后にとって、長安は約20年ぶり。
長安に戻ったのを機に、則天武后は長安と改元しました。
則天武后は事あるごとに改元する改元好きで有名ですが、則天武后にとって、長安に戻ったことは大きな意味がありました。
というのも、唐の皇帝は、都・長安の南郊で南郊祀を行ってきました。
一方、695年に、則天武后も南郊祀を行いましたが、則天武后が南郊祀を行った場所は、長安の南郊ではなく洛陽の南郊。
長安に戻った702年、唐の歴代皇帝と同じように、則天武后は長安の南郊で南郊祀を行いました。
則天武后にとって、唐の第2代皇帝・太宗や高宗と同じように、長安の南郊で南郊祀を行うことは、唐の皇帝の仲間入りを果たしたと世に知らしめる機会となりました。
でも、則天武后が長安の南郊で南郊祀を行った理由は、それだけではありません。
則天武后にとって第3皇子(高宗にとって第7皇子)である李顕の顔を立てるという目的がありました。
高宗が崩御した後、684年、李顕は唐の第4代皇帝・中宗として即位しました。
ところが、則天武后の怒りを買った中宗は、即位後わずか55日で廃され、均州(湖北省丹江口市)に流罪となりました。
続いて即位した唐の第5代皇帝・睿宗は、即位して6年後に、則天武后に譲位しました。
皇帝となった則天武后を悩ませていたのが後継者問題。
唐の皇室は李氏ですが、則天武后は武氏です。
則天武后は後継者を李氏にするか、武氏にするかを悩んでいたんですね。
結果、則天武后は自ら廃した李顕を皇太子にすると決め、699年に、李顕を流罪先から呼び戻しました。
一度流罪に処された李顕は、皇帝としてはもちろん、皇太子としての権威を失っています。
そこで、則天武后は李氏である太宗や高宗と同じように、長安の南郊で南郊祀を行うことで、李氏を後継者に選び、李顕の権威を復活させようとしたんです。
皇帝である自分の顔と皇太子・李顕の顔を同時に立てるなんて、頭の切れる則天武后だからこそ思いついたのかもしれませんね。
まとめ
則天武后が長安と洛陽で郊祀を行った意外な理由を紹介しました。
690年に即位した則天武后は、695年に洛陽の南郊で南郊祀を行いました。
そして、洛陽から長安に戻った702年には、唐の歴代皇帝と同じように、長安の南郊で南郊祀を行いました。
則天武后が長安の南郊で南郊祀を行った理由として、
① 唐の皇帝の仲間入りを果たしたと世に知らしめたかった
② 則天武后自ら廃した李顕の権威を復活させたかった
という2点が挙げられます。
悪女として名高い則天武后。
則天武后は自分のことだけでなく、唐の将来を見据えて、郊祀を行ったんですね。
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