敗北すると判っていながらも、後醍醐天皇に従って足利尊氏と戦った楠木正成。
楠木正成は忠臣として英雄視されていますが、一方で「悪党」とも呼ばれています。
悪党の意味と誕生した時期、楠木正成が悪党と呼ばれる理由を紹介します。
悪党の意味は?
悪党と聞いて、どのような人を思い浮かべますか?
法を犯す人、社会の秩序を乱す行為をする人など、悪いイメージを抱いている方も多いのではないでしょうか。
支配者や支配体制に反発したのは、厳しい生活を強いられていた百姓だけではありません。
商人や武士、豪族や公卿の家人なども含まれていました。
悪党はいつ誕生した?
悪党という単語が史料に初めて登場するのは「続日本紀」。
「続日本紀」によると、霊亀2年(716年)に鋳銭悪党が私的に銭貨を造って官銭の価値を低下させました。
続いて、悪党が史料に登場するのは「占部安光文書紛失状案」の永万元年(1165年)の記録。
以降、悪党は史料に度々登場することになります。
荘園の支配者(本所)は大寺院で、荘民(荘園内の民)が反発すると、宗教的権威を振るうことで解決するケースが多くありました。
大寺院にそれでも反発し続ける民は悪党と呼ばれ、仏教を間接的に破壊しようとしているとみなされました。
仏教を信じる荘民によって、悪党が排除されることもしばしばありました。
ところが、13世紀半ばに入ると、この支配体制は崩れ始めます。
御家人の没落
鎌倉幕府では、戦における功績によって、御家人に所領を分配していました。
幕府と御家人は「御恩と奉公」の契約を結んでいたからです。
① 御恩
・先祖代々受け継ぐ土地の支配を認める(本領安堵)
・新たに土地を与える(新恩給与)
・守護、地頭に任命する
② 奉公
・平時は京都大番役(朝廷警護)、鎌倉番役(幕府警護)にあたる
・戦時は将軍のために戦う
です。
ところが、宝治元年(1247年)の宝治合戦以降、大きな戦が起こらず、所領を再分配する機会がなくなります。
御家人までも悪党化し、所領紛争が始まりました。
御家人を悪党として認めると、幕府は御家人を厳しく取り締まらなければいけません。
でも、御家人が契約違反し、幕府との主従関係が崩れたとなると、幕府に対する信頼が低下します。
幕府は御家人の説得に時間をかけ、問題解決を先延ばしにしてしまいました。
宗教的権威の失墜
荘民は本所である寺院に年貢を納め、お供えしてきました。
ところが、貨幣経済が社会に浸透すると、「寺院にお供えする」という概念が「地主の収入」に変化します。
これにより、宗教的権威を振るって支配することが困難になりました。
更に、元による襲来(元寇)で鎌倉幕府が揺らぎ始めます。
荘園支配者や幕府に反抗的な民(悪党)は武装し、自ら砦を築いて立てこもり、各地の荘園を襲うようになりました。
褒美を目的に戦う武士は、
① 名乗る
② 攻撃されない限り攻撃しない
などの暗黙のルールがありました。
でも、悪党は武士ではありません。
朝廷や幕府の法に縛られることなく、自由に戦いました。
楠木正成が悪党と呼ばれるのは何故?
楠木正成は悪党の一人に数えられていますが、幼少期から悪党だったわけではありません。
永仁2年(1294年)生まれの楠木正成が挙兵したのは元弘元年(1331年)で37歳のこと。
幕府を倒したい後醍醐天皇に従って挙兵しました。
楠木正成の挙兵はまさに悪党の定義に一致するんですね。
まとめ:楠木正成は天皇に従って悪党になった!
悪党の意味と誕生した時期、楠木正成が悪党と呼ばれる理由を紹介しました。
「支配者や支配体制に反発し、騒動を起こす人、集団」と定義される悪党。
楠木正成もその一人で、後醍醐天皇の命令に従って挙兵しました。
悪党が英雄視されるなんて矛盾を感じられるかもしれませんが、定義や楠木正成の生き様を知るとスッキリするのではないでしょうか。
楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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