遣唐使という単語を聞いて思い浮かべるのは、阿倍仲麻呂、吉備真備、菅原道真ではないでしょうか。
この3人の中で、吉備真備は覚えやすい名前ですよね。
吉備真備はどんな人物なのでしょうか。
吉備真備の生涯を9つに分けて紹介します。
吉備真備って何をした人?
717年と751年に、吉備真備は遣唐使として唐に渡りました。
帰国後は右大臣・橘諸兄に重用され、後に吉備真備自身も右大臣に就任するなど、朝廷で大活躍しました。
吉備真備の生涯
695年、吉備真備は備中国(現在の岡山県倉敷市)で生まれました。
父は下道圀勝で、備中国の豪族でした。
大学に入学する
備中国の一豪族の子どもだった吉備真備。
下道圀勝は平城京の警備兵を務めていて、お世辞にも高い身分とはいえませんでした。
でも、吉備真備は勉強に励み、15歳で大学に入学しました。
大学とは現在でいう官僚育成機関。
大学に入学できるのは、官位が五位以上のいわゆる高級貴族の子弟だけでした。
下道圀勝の官位は七位といわれています。
吉備真備は特別に入学を許可されたんですね。
遣唐使に選ばれる
大学を卒業すると、在籍中の高いに成績を評価され、従八位下の官位を与えられました。
紹介したように、高級貴族の子弟の官位が五位以上なので、吉備真備に与えられた従八位下は劣ります。
でも、家柄が重視されていた当時、下道圀勝の子どもである吉備真備が従八位下を授かるのはとても名誉なこと。
遣唐使に選ばれる前から、吉備真備は優秀だったことがわかりますね。
717年、吉備真備は第9回遣唐使に選ばれ、阿倍仲麻呂や玄昉、井真成らと一緒に唐に渡りました。
長期留学生の吉備真備は唐に18年間滞在し、経書や史書の他、天文学、音楽、兵学など、幅広い分野を学びました。
帰国する
734年10月、第10回遣唐使船の帰国にあわせて、吉備真備と玄昉は帰国することになりました。
暴風雨に遭って種子島に漂着するなどのトラブルはありましたが、半年後の735年4月に無事帰朝しました。
経書や天文暦書、楽器や音楽書の他、日時計や弓、矢を献上し、吉備真備の遣唐使としての功績は高く評価され、従八位下から正六位下に昇進しました。
また、大学助に任命されました。
吉備真備が唐で学んだことを日本に取り入れたいという朝廷の気持ちがうかがえますね。
藤原広嗣から反感を買う
738年、橘諸兄が右大臣に任命されると、橘諸兄は吉備真備と玄昉を重用し、吉備真備を右衛士督に任命しました。
吉備真備は順調に出世を重ねてきましたが、吉備真備の活躍を面白く思っていなかった人がいました。
式部少輔兼大養徳守・藤原広嗣です。
式部少輔とは式部省の次官、大養徳守とは大和国司の長官です。
備中国の一豪族の出身である吉備真備が高い官位を授かっていることに不満を抱いていました。
そこで、藤原広嗣は吉備真備と玄昉を朝廷から追い出そうと画策しました。
藤原広嗣のこの行動は、橘諸兄にとって謀反と同じ。
吉備真備と玄昉を登用したのは橘諸兄です。
吉備真備と玄昉を追い出すことは、橘諸兄を間接的に批判していることになります。
引くに引けなくなった藤原広嗣は、740年9月、弟・藤原綱手と共に、一万人の兵を率いて反乱を起こしました。
藤原広嗣を討伐するように命じられた大野東人は藤原広嗣と藤原綱手を捕らえました。
吉備氏を与えられる
藤原広嗣の反乱が鎮圧された741年、東宮学士に任命されました。
743年には、皇太子・阿倍内親王の教育係になり、漢書や礼記などを教えました。
746年、吉備氏を与えられ、下道氏から改めました。
吉備氏に改めたことで、吉備真備は吉備地方を代表する大豪族になりました。
肥前守に左遷される
749年、吉備真備が教育係を務めていた阿倍内親王(孝謙天皇)が即位し、これまでの功績を認められて、吉備真備は従四位上を授かりました。
でも、孝謙天皇の政権下では、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂が強い権力をもち、橘諸兄の権力は弱まってしまいました。
順調に出世を重ねてきた吉備真備は、肥前守(現在の佐賀県、長崎県)に左遷されました。
遣唐使に再び選ばれる
752年、第12回遣唐使の副使に選ばれ、大使・藤原清河と共に、唐に渡りました。
唐で官職に就いていた阿倍仲麻呂は、案内役として吉備真備をサポートしました。
753年6月、帰国するために、吉備真備らは唐を出発。
屋久島に漂着しましたが、紀伊国(現在の和歌山県)を経由して帰朝しました。
遣唐使の副使の任務を終えて無事帰朝したものの、大宰大弐に任命されて、朝廷から離れることになりました。
大宰大弐とは大宰府の長官です。
当時、新羅とは対立関係にあり、唐では安史の乱が勃発していたため、吉備真備は新羅や唐による侵攻に備えて、怡土城(福岡県糸島市)を築きました。
刪定律令を編纂する
764年、吉備真備は高齢を理由に、上奏文にて退職を願い出ました。
ところが、上奏文が天皇に届けられる前に、造東大寺長官に任命されてしまいました。
9月には、藤原仲麻呂の乱が起き、参議に任命されて、反乱を鎮圧する役目を担いました。
反乱を鎮圧すると、勲二等を授けられ、中納言、大納言、右大臣と立て続けに昇進。
769年には、757年に施行された養老律令を修正するため、刪定律令を編纂しました。
引退する
770年、光仁天皇が即位し、吉備真備は高齢を理由に再び退職を願い出ましたが、やはり認められず、翌771年、退職を願い出て、ようやく許可が下りました。
退職した後、吉備真備がどのように過ごしたかは分かっていませんが、775年10月2日に、81歳で亡くなったことだけが分かっています。
まとめ
吉備真備の生涯を9つに分けて紹介しました。
第9回遣唐使、第12回遣唐使として、717年と751年に、吉備真備は唐に渡りました。
吉備真備の代表的な功績はありません。
それでも、吉備真備が後世に名を残したのは、備中国の豪族出身でありながら、実力で右大臣にまで昇りつめたからです。
家柄が重視された奈良時代。
でも、実力もある程度重視されたのかもしれませんね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!