小田原征伐のきっかけ、結果と与えた影響をわかりやすく簡単に

天正17年(1589年)11月、豊臣秀吉は小田原城を拠点とする北条氏を攻めました。

小田原征伐きっかけ結果と与えた影響わかりやすく簡単に紹介します。

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小田原征伐のきっかけ

豊臣秀吉が北条氏の征伐に乗り出した理由は、北条氏が豊臣秀吉の言うことを聞かなかったからです。

上洛要請に応じなかったから

天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれました。

豊臣秀吉は誰よりも早く明智光秀を討ちます。

その後、
① 清洲会議を経て、織田政権を継承
② 小牧・長久手の戦いで、織田氏の勢力を弱体化
しました。

天正12年(1585年)には関白に就任。
翌年には四国を、翌々年には九州を平定し、残るは、関東と東北だけとなりました。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は、

関東、奥両国(陸奥国、出羽国)では、勝手に戦をしてはならない

という惣無事令を発令しました。

更に、自らの権力を全国に知らしめようと、豊臣秀吉は京都に聚楽第(じゅらくてい。豪華な屋敷)を建設。

天正16年(1588年)4月、豊臣秀吉は聚楽第に後陽成天皇を招き、全国の大名に上洛するよう命じました。
(豊臣秀吉に)従うのか、従わないのかを全国の大名は試されていたんです。

ところが、
① 北条氏
② (北条氏と同盟を結んでいた奥州の)伊達政宗
は上洛要請に応じませんでした。

関東を治める北条氏は初代・北条早雲(1456年から1519年)以来100年以上続く名門。

4代目当主・北条氏政は天正8年(1580年)に隠居しました。
でも、5代目当主・北条氏直と共に実権を握っていました。

名門出身の北条氏政は農民出身の豊臣秀吉を認めていませんでした。

勝手に戦をしたから

何故、北条氏は上洛しないのか。
豊臣秀吉は徳川家康を通じて理由を尋ねました。

すると、北条氏政は「奪われた沼田城を返してくれないから」と回答しました。

沼田城主・真田昌幸は豊臣家臣だったため、豊臣秀吉は、
・沼田城を北条氏に返還する
・沼田城の支城である名胡桃城を真田氏に残す
ことにし、丸くおさめようとしました。

ところが、北条氏政は豊臣秀吉の裁定に不満を抱きます。

名胡桃城は沼田城の支城なのだから、名胡桃城も北条氏に明け渡すべきだ!

と言うんです。

そして、天正17年(1589年)10月、沼田城代・猪俣邦憲は名胡桃場を攻め取ってしまいました。

猪俣邦憲のこの行動は豊臣秀吉の発令した惣無事令に違反します。

☑ 上洛しなかった
☑ 豊臣秀吉の裁定に不満を抱いた
☑ 惣無事令を違反した
北条氏を、豊臣秀吉は征伐せずにいられませんでした。

11月、豊臣秀吉は北条氏に宣戦布告。

豊臣秀吉は北条氏のいる小田原城に進軍しました。

小田原征伐の結果

天正18年(1590年)4月3日、豊臣秀吉は22万人の兵で小田原城を包囲。

北条氏政は5万6000人の兵を率いて籠城戦にもち込みます。

攻撃を仕掛けることなく、仕掛けられることなく、ただ籠城するだけ。

北条氏直は敗北のプレッシャーに耐えられなくなります。
7月5日、100日間にも及ぶ籠城の末、北条氏直は開城し、豊臣秀吉に降伏しました。

小田原征伐の与えた影響

豊臣秀吉が勝利した小田原征伐は、関東、東北、東海に大きな影響を与えました。

北条氏の関東支配の終焉

当初、開城・降伏の条件は、
① 北条氏の領地を武蔵国、相模国、伊豆国の3ヶ国とする
② 北条氏直に上洛させる
の2つでした。

でも、小田原征伐を行うことになった責任は、
① 北条氏政
② 北条氏照
③ 宿老・松田憲秀
④ 宿老・大道寺政繁
にあるとして、4人を切腹させました。

北条氏直は徳川家康の助命嘆願により、北条氏直は高野山に流刑となります。

その後、赦免された北条氏直は大坂で旧織田信雄邸を与えられます。
更に、河内国で1万石を与えられ、豊臣秀吉のもとで大名として復活しました。

ところが、復活して3ヶ月も経たないうちに、疱瘡を患って病死。
北条氏直には跡継ぎがいなかったため、従弟・北条氏規の長男・北条氏盛が遺領を継ぎました。

豊臣秀吉の天下統一

小田原征伐で勝利した豊臣秀吉はついに関東を平定。

☑ 豊臣側として、小田原征伐に一早く参戦した大名には本領を安堵する
☑ 遅れて参戦した大名には、滅亡、減封、改易などの処置を下す
などがなされました。

もちろん、豊臣秀吉の下した裁定に反発し、一揆をおこす国衆もいました。
でも、その度に一揆を鎮圧し、豊臣秀吉は天下を統一しました。

徳川家康の関東移封

北条氏と姻戚関係にあるにも関わらず、豊臣秀吉に従って参戦した徳川家康。

ところが、豊臣秀吉は徳川家康から、遠江国、駿河国、三河国、甲斐国、信濃国の5ヶ国を取り上げました。
そして、代わりに関東の7ヶ国を与え、大坂、京都から徳川家康を遠ざけました。

天下を統一した豊臣秀吉が徳川家康を恐れていたのは言うまでもありません。

まとめ:名門出身者が強い時代は終わっていた!?

小田原征伐きっかけ結果と与えた影響わかりやすく簡単に紹介しました。

名門出身の北条氏政は農民出身の豊臣秀吉を認めず、豊臣秀吉に従おうとしませんでした。
北条氏政の態度に怒った豊臣秀吉は小田原征伐を行い、天下を統一しました。

この3年後、豊臣秀吉は外国に目を向け、朝鮮出兵に乗り出します。

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