天正壬午の乱の後に徳川家康が旧武田家臣の心を掴んだ4つの方法

北条氏政・北条氏直親子と和睦し、天正壬午の乱を終結させた徳川家康。
和睦後、徳川家康は獲得した甲斐国の統治に着手します。

天正壬午の乱の後に徳川家康旧武田家臣の心を掴んだ4つの方法を紹介します。

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甲斐国の統治を甲斐国衆や旧武田家臣に任せた

徳川家康は甲斐国の統治を甲斐国衆や旧武田家臣に任せました。

甲斐国都留郡の一部の統治を甲斐国衆に任せた

徳川家康は甲斐国都留郡の一部の統治を家臣・鳥居元忠に任せました。

・都留郡は有力国人である小山田氏が独自に支配していた地域であること
・都留郡が北条氏の領地と接していたこと
から、小山田氏、北条氏を警戒。天正壬午の乱の黒駒合戦において功績をあげた鳥居元忠が都留郡に配置されました。

ここで注目したいのは、徳川家康が鳥居元忠に統治を任せたのは都留郡の一部であること。

都留郡の中でも、
・小山田氏が支配していなかった地域
・北条氏の領地と接していなかった地域
の統治は、鳥居元忠ではなく、徳川氏に従った甲斐国衆に任せました。

甲斐国山梨郡の行政を旧武田家臣に任せた

徳川家康は甲斐国山梨郡の軍事指揮を平岩親吉に任せました。

軍事指揮だけを任された平岩親吉は行政を行うことができません。

そこで、平岩親吉は躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点とし、両奉行を設置。

両奉行には、
① 旧武田家臣・成瀬正一
② 甲斐国出身の日下部定好
を任命して、二人に実務を任せました。

また、両奉行を支える奉行には、武田一族・桜井信忠、旧武田家臣・市川家光、工藤昌祐、石原昌明、駒井政直、三枝元久らを任命しました。

甲斐国衆の知行を安堵した

徳川軍1万人が北条軍5万3000人に勝利できたのは、甲斐国衆が徳川家康に帰属したから。

甲斐国衆を引き続き味方につけておきたかった徳川家康は、甲斐国衆に知行安堵状を発給しました。

天正壬午の乱の最中にも、徳川家康は甲斐国衆に知行安堵状を発給し、徳川軍が優位であることを内外に印象付けました。

武田信玄の菩提寺・恵林寺を再興した

天正10年(1582年)4月、武田信玄の菩提寺・恵林寺は織田信長によって焼き討ちされてしまいました。

徳川家康は恵林寺の焼け跡を訪れ、開山夢窓国師像と不動尊像の2体が無事だったことを知ります。

徳川家康は下野国雲巌寺に身を隠していた末宗瑞曷を住持に迎えました。
そして、茶湯料として64俵、寺中3万6400坪、山林一里四方(約16平方キロメートル)を寄付し、恵林寺を再建するよう命じました。

武田勝頼の菩提寺・景徳院(田野寺)を建立した

恵林寺の再興と同時に、武田勝頼とその家臣を弔うために、武田勝頼と最期を共にした小宮山友晴の弟・拈橋倀因(ねんきょうちょういん)を住持に迎えました。
そして、寺領として田野村一帯を、茶湯料として茶湯山を初鹿野村で与え、田野寺を建立するよう命じました。

天正16年(1588年)に伽藍が完成し、田野寺は武田勝頼の法名にちなんで景徳院と称されました。

まとめ:徳川家康は甲斐国衆の労に報いただけ

天正壬午の乱の後に徳川家康旧武田家臣の心を掴んだ4つの方法を紹介しました。

天正壬午の乱の後、徳川家康は、
① 甲斐国の統治を甲斐国衆や旧武田家臣に任せる
② 甲斐国衆の知行を安堵する
③ 武田信玄の菩提寺を再興する
④ 武田勝頼の菩提寺を建立する
などして、武田氏を慕ってきた旧武田家臣や民の心を掴みました。

徳川家康のマネジメント術は目を見張るものがありますね。

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