室町時代に始まり、豊臣政権下で中止になった朝鮮通信使。
朝鮮通信使を再開したのは徳川家康でした。
徳川家康が朝鮮通信使を再開した目的と与えた影響をわかりやすく解説します。
朝鮮通信使とは?
朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮から日本に派遣された外交使節団を指します。
朝鮮通信使が初めて来日したのは永和元年(1375年)。
室町幕府第3代将軍・足利義満の治世です。
当時、日本の海賊である倭寇が朝鮮や中国の沿岸部を荒らしていました。
倭寇に悩んでいた朝鮮は倭寇の禁圧を求めて、日本に使者・羅興儒を派遣しました。
☑ 倭寇の禁圧を引き続き要請する
☑ 朝鮮の要請に対する回答を受け取る
☑ 日本に御礼を述べる
など、さまざまな目的で朝鮮通信使が来日しました。
ところが、朝鮮通信使が初めて来日して217年が経った天正20年(1592年)。
日本と朝鮮は国交を断絶してしまいます。
豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮出兵を行ったからです。
国交断絶中も和議・休戦交渉を目的に朝鮮通信使が来日しましたが、来日は一度きりにとどまりました。
徳川家康が朝鮮通信使を再開した目的
関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康。
徳川家康は国交の回復と朝鮮通信使の再開を目指します。
これにより、室町幕府の支配力が低下し、幕府滅亡へと繋がりました。
西日本の大名が朝鮮とやり取りし始める前に、徳川家康は朝鮮と国交を回復し、日朝貿易の主導権を握らなければいけなかったんです。
朝鮮出兵を行った豊臣秀吉が亡くなっても、朝鮮では日本を憎む人々が多くいました。
① 豊臣軍によって日本に連行された捕虜の返還を求める
② 日朝貿易の再開を求める
動きがありました。
つまり、国交を回復したいというお互いの利害が一致したんです。
慶長9年(1604年)、朝鮮から使者・惟政、孫文或が来日。
徳川家康と徳川秀忠は、二人と直接面会します。
大御所と将軍自ら使者に面会したことで、「国交を回復したい」という江戸幕府の強い気持ちが朝鮮に伝わります。
慶長12年(160年)、江戸時代に入って初めて朝鮮通信使が来日しました。
そして、捕虜の帰国が実現し、貿易が再開されました。
朝鮮通信使の再開が与えた影響
朝鮮通信使の再開は民の生活に悪い影響、良い影響のどちらも与えました。
諸藩が財政難になった
一度で来日する朝鮮通信使は300人から500人程度。
幕府は国内外に権威を示そうと、莫大なお金をつぎ込んで接待しました。
また、朝鮮通信使が往来する藩の大名は藩同士で競い合い接待しました。
でも、どんなに優れた接待をしても、幕府から褒美が与えられるわけではありません。
朝鮮通信使が通過し帰国したら、日本人はいつもの生活に戻ります。
朝鮮通信使の再開は、藩はもちろん、民に大きな負担となりました。
② 東アジアが激動の時代に突入した
ため、文化8年(1811年)を最後に、朝鮮通信使は来日しなくなりました。
経済が部分的に潤った
紹介したように、朝鮮通信使が往来する藩の大名は接待しなければいけませんでした。
藩は接待に必要な食材を民から調達していました。
この時、藩が安値で買い叩かないよう、幕府から、
適正な価格で売買するように。
というお触書が出されました。
そのため、商人や食材を生産する民は収入が一時的に増えました。
また、接待するための施設を立てたり、道を補修したりしたため、工事に携わった民も収入が増えました。
朝鮮通信使の再開は、外交だけでなく、民の生活にも様々な影響を与えたんですね。
まとめ:藩は財政難になるも、民は収入が一時的に増えた!
徳川家康が朝鮮通信使を再開した目的と与えた影響をわかりやすく解説しました。
特に西日本の大名を警戒していた徳川家康。
徳川家康は朝鮮と国交を回復し、朝鮮通信使を再開することで、日朝貿易の主導権を握りました。
朝鮮通信使の再開により、諸藩は財政難になりましたが、経済が部分的に潤い、民の生活にも様々な影響を与えました。
遣隋使や遣唐使に比べて、日本の歴史教科書で取り上げられることの少ない朝鮮通信使。
朝鮮通信使に興味のある方は、これを機に調べてみてはいかがでしょうか。
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