織田信長の富士遊覧の目的と行程!徳川家康の接待が成功した理由

・天正3年(1575年)の長篠の戦い
・天正9年(1581年)の第二次高天神城の戦い
・天正10年 (1582年)の天目山の戦い
を経て、徳川家康と共に武田氏を滅亡させた織田信長。

甲斐仕置きを終えた織田信長は、旧武田領・甲斐国から拠点・安土城に帰ります。
その道中、織田信長は「富士遊覧」と称して、徳川家康の接待を受けました。

織田信長富士遊覧目的行程徳川家康接待が成功した理由を紹介します。

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織田信長の富士遊覧の目的と行程

織田信長は、
① どのような理由で
② どのような行程で
富士遊覧を行ったのでしょうか。

織田信長の富士遊覧の目的

織田信長の富士遊覧の目的は、東国平定を天下に知らしめるためです。

・建久元年(1190年)に源頼朝が富士の巻き狩り
・嘉慶2年(1388年)に足利義満が富士遊覧
・永享4年(1432年)に足利義教が富士遊覧
を行いました。

織田信長は征夷大将軍となって、幕府を開く将来を思い描いていたんです。

旧武田領・甲斐国から拠点・安土城に帰る織田信長は、徳川家康の領地を通過することになります。

徳川家康にとって、織田信長は清洲同盟の相手。
同盟相手は本来対等の立場です。

でも、徳川家康は事実上の天下人となった織田信長に気を遣っていました。

そこで、徳川家康は織田信長を接待することにしました。

織田信長の富士遊覧の行程

織田信長の富士遊覧は4月10日に始まります。

富士遊覧を始める前

4月2日、織田信長は上諏訪を出発し、大ヶ原(山梨県北杜市)に移動します。
この時、相模国の北条氏政が織田信長を訪ね、雉500羽を献上しました。

4月3日、大ヶ原から新府城を経て、躑躅ヶ崎館跡に移動しました。

富士遊覧

4月10日、織田信長はついに甲斐国を出発。

笛吹川の船橋を渡って、甲府と駿河を結ぶ中道往還を南下します。
中道往還は人と馬が通れるだけの狭い道でした。

そこで、徳川家康は荷車が通れるよう拡張し、道の左右に兵を配備しました。

織田信長は右左口(うばぐち・山梨県甲府市)に滞在。
徳川家康はわずか一日で織田信長と本隊の兵のとなる宿(陣屋)を建設しました。

徳川家康の建設した宿は1000軒にも及ぶといわれています。

4月11日、明け方に右左口を出発。
精進湖(しょうじこ・山梨県南都留郡)を通って、本栖(山梨県南巨摩郡)に滞在します。
右左口同様、徳川家康は宿を建設しました。

4月12日、本栖を出発し、富士の裾野を南下。
・富士の人穴
・上井手の丸山
・白糸の滝
を見物した後、大宮に滞在します。

大宮には富士山本宮浅間大社がありましたが、攻め込んだ北条軍によって焼失してしまいました。

そこで、徳川家康は金銀を装飾した柱を使い、建物を柵で囲んだ、まるで城のような宿を建設。
織田信長は徳川家康の働きを大絶賛しました。

4月13日、大宮を出発し、浮島ヶ原を経て富士川を渡ります。

・田子の浦
・三保の松原
を見物し、穴山信君の居城・江尻城に滞在しました。

4月14日、江尻城を出発し、武田水軍の拠点だった持船城を見物。

持船城は元々今川氏の支配下にあり、徳川家康の正室・築山殿の父・関口氏純が城主を務めていました。

その後、武田氏の支配下にあった田中城に滞在します。

4月15日、田中城を出発。
大井川を渡って、掛川城に滞在します。

4月16日、掛川城を出発。
・高天神城
・馬伏塚城
など、武田軍と戦った舞台を見物します。

その後、天竜川の船橋を渡って、浜松城に滞在しました。

船橋とは、川に複数の船を浮かべて、綱で固定し、その上に板を並べて作った橋です。

浜松城に到着するなり、織田信長は鉄砲衆500人のみを残し、他は先に帰らせました。
織田信長が徳川家康を信頼している証拠です。

4月17日、浜松城を出発。

今切の渡を船で渡り、酒井忠次が城主を務める吉田城に滞在します。

酒井忠次自ら織田信長をもてなしました。
宴会芸・海老すくいを披露したかもしれません。

4月18日、吉田城を出発。
本坂街道を経て、徳川家康が幼少期を過ごしたといわれる宝蔵寺に立ち寄ります。
その後、岡崎城を見物して、矢作川を渡りました。

ここで、徳川家康は織田信長の警護を叔父・水野忠重に引き継ぎます。
水野忠重は織田信長を安土城に無事送り届けました。

織田信長が安土城に到着したのは4月21日でした。

徳川家康の接待が成功した理由

度々「接待」といっていますが、実際にはそんな生ぬるいものではありません。

徳川家康の領地で万が一の事態が起きたら、織田信長の顔に泥を塗ってしまいます。
徳川家康にとって、織田信長の富士遊覧は戦に匹敵するような一大事でした。

徳川家康はどのようにして接待を成功させたのでしょうか。

長谷川秀一の手を借りた

織田信長には長谷川秀一という小姓がいました。

美男だった長谷川秀一はただの小姓ではなく、織田信長の男色相手でもありました。
小姓の中でも、長谷川秀一は織田信長の好き嫌いを知り尽くした家臣。

織田信長を接待すると決めるなり、徳川家康は長谷川秀一に相談しました。

織田信長の好みを知っていた

今川家で人質生活を送る前に、徳川家康は織田家で人質生活を送っていました。

この時、徳川家康と織田信長が一緒に過ごすこともしばしば。
幼少期の思い出から、徳川家康は織田信長の好みを想像していたのかもしれません。

織田信長の描く未来予想図を知っていた

永禄5年(1562年)に清洲同盟を結び、数々の戦を乗り越えてきた徳川家康と織田信長。

徳川家康が織田信長の話を聞く機会はたくさんありました。
徳川家康は織田信長が天下人となった暁に実現したいことを知っていたのかもしれません。

徳川家康は織田信長のお気に入りだった

織田信長は妹・お市の方を徳川家康に嫁がせようと考えていました。

あの織田信長が実の妹を嫁がせようと考えるなんて。
徳川家康は織田信長のお気に入りだったに違いありません。

天正元年(1573年)、お市の方は夫・浅井長政を失くし、未亡人になりました。
徳川家康も正室・築山殿を失くしていたため、織田信長は二人を再婚させようと考えていたかもしれません。

まとめ:織田信長の富士遊覧、徳川家康の接待は大成功!

織田信長富士遊覧目的行程徳川家康接待が成功した理由を紹介しました。

徳川家康は、
・大きな石や木を取り去る
・大井川や天竜川などの大きな川に舟橋を作る
などして、織田信長の身の安全を確保。

更に、
・茶屋、宿を新たに建て、食事やお酒を手配する
などして、織田信長を楽しませました。

徳川家臣にとって、織田信長の富士遊覧は戦の準備より忙しかったのではないでしょうか。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

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