徳川家康の長男・信康を殺した徳姫が再婚しなかった理由

戦国武将の娘にとって、離縁や再婚は当たり前。
でも、織田信長の長女・徳姫は再婚しませんでした。

徳川家康の長男・信康を殺した徳姫再婚しなかった理由を、生涯と共に紹介します。

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徳川家康の長男・信康を殺した徳姫

徳姫は永禄2年(1559年)生まれで、織田信長と側室・生駒吉乃の間に長女として誕生しました。
名前はごとく(五徳)といいます。

信康と結婚する

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを経て、徳川家康は今川氏から独立しました。

今川氏から独立した後も、徳川家康は織田信長と戦い続けます。
でも、永禄5年(1562年)、お互いの利益のために、徳川家康と織田信長は同盟を結ぶことを選択。

姻戚関係を築いて、同盟を強化しようと、織田信長は徳川家康の長男・信康に徳姫を嫁がせると約束しました。

永禄10年(1567年)、9歳を迎えた徳姫は信康と結婚します。
織田信長のもとを離れて、信康の暮らす岡崎城に移り住みました。

信康と築山殿を死に追い込む

徳姫と信康は、
① 天正4年(1576年)に長女・登久姫
② 天正5年(1577年)に次女・熊姫
を授かります。

おゆう
おゆう

子どもをたて続けに出産した徳姫。
身体には大きな負担がかかっていたと思います。

でも、信康の母・築山殿は徳姫が男の子を授からないことに不満を抱いていました。

信康が跡継ぎを授かるよう、築山殿は、
① 元武田家臣・浅原昌時の娘
② 元武田家臣・日向時昌の娘
を信康の側室に迎えました。

正室に断りもなく側室を迎えた築山殿と信康に仕返しをしようと、徳姫は二人を見張りました。

そして、
・築山殿が武田家臣と手紙のやり取りをしていること
・築山殿が甲州の医師と密会していること
・信康が悪事を働いていること
を突き止めます。

天正7年(1579年)、徳姫は織田信長に二人の行動を告げ口しました。
二人の処遇を任された徳川家康は信康を切腹させ、また、築山殿を殺しました。

豊臣家の人質となる

天正8年(1580年)、徳姫は、
① 4歳の登久姫
② 3歳の熊姫
を岡崎城に残し、織田氏の支配下である安土に帰りました。

天正10年(1582年)の本能寺の変で、織田信長と長兄・織田信忠が討たれます。

居場所を失った徳姫は次兄・織田信雄のもとに身を寄せました。

徳姫と織田信雄が安土を出たのは、それから2年後。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、織田信雄・徳川家康連合軍は豊臣秀吉と戦いました。

優勢だったにも関わらず、織田信雄は徳川家康に無断で豊臣秀吉と和睦しました。

この時、織田信雄は豊臣秀吉に忠誠心を示すために、徳姫を人質として差し出します。

徳姫は豊臣家の人質として、京都に移り住みました。

その後、母・生駒吉乃の出身である尾張国小折(愛知県江南市)に移り住みます。
でも、その後すぐに、豊臣秀吉から京都に呼び戻されました。

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いの後、徳姫は京都に邸宅を構えました。
徳姫は親戚の相談に乗るなどして静かに暮らし、寛永13年(1636年)に77歳で亡くなりました。

徳姫が再婚しなかった理由

紹介したように、戦国武将の娘は離縁したら再婚するのが当たり前。

では、何故、徳姫は再婚しなかったのでしょうか。

残念ながら、徳姫が再婚しなかった理由は判っていませんが、私は次のように考えています。

悪評が立ったから

戦国時代には「今日の友は明日の敵」ということわざがピッタリ。
同盟を結んでも、和睦しても、同盟相手や和睦相手、そして、家臣から突然裏切られることはよくありました。

それでも、妻が夫を陥れるケースは珍しく、徳姫の恐ろしさは全国に知れ渡ってしまいました。

おゆう
おゆう

特に、徳姫の父は気性の激しい織田信長。

夫と義母を殺した徳姫と結婚したら、気性の激しい織田信長が義父になってしまいます。
いわくつきの徳姫を嫁に迎えたいと願う男性はいなかったのではないでしょうか。

徳川家康の気分を害したくなかったから

徳川家に嫁いだ徳姫が再婚する場合、徳川家より格の高い家に嫁がなければ、徳川家に失礼に当たります。

永禄9年(1566)5月、三河国を平定した徳川家康は従五位下三河守に叙任されていました。

徳川家より格の高い家はそう簡単にみつかりません。

また、長男を殺された徳川家康は、

息子を殺しておいて、自分だけ幸せになろうなんて…

と、徳姫の再婚を妬むかもしれません。

徳姫の父・織田信長、徳姫を人質として預かった豊臣秀吉は、徳川家康の気分を害したくなかったのではないでしょうか。

出家していたから

紹介したように、信康が切腹した後、徳姫は安土に帰りました。

といっても、織田信長と一緒に暮らしたわけではありません。
徳姫の化粧田は近江長命寺(滋賀県近江八幡市)だったとされています。

つまり、徳姫は出家していた可能性が高く、再婚したくてもできなかったのかもしれません。

縁談をまとめられなかったから

本能寺の変が起きたのは、徳姫が安土に帰った天正8年(1580年)からわずか2年後。

おゆう
おゆう

織田信長は徳姫を誰かに嫁がせようと考えていたかもしれません。
でも、たった2年では、まとまる縁談もまとまりませんよね。

織田信長があと数年長く生きていたら、縁談がまとまって、徳姫が再婚していた可能性もあったのではないでしょうか。

まとめ:徳姫の気性の激しさは父親譲り

徳川家康の長男・信康を殺した徳姫再婚しなかった理由を、生涯と共に紹介しました。

徳姫が再婚しなかった理由は判っていませんが、
・悪評が立った
・徳川家康の気分を害したくなかった
・出家していた
・縁談をまとめられなかった
などの理由が考えられます。

プライドの高い徳姫はどのような気持ちで岡崎城を去り、豊臣家の人質となり、最期を迎えたのでしょうか。

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