徳川家康は正室・築山殿、継室・朝日姫の他に、20人もの女性を側室に迎えていました。
その中で、最初に側室に迎えられたのが、次女・督姫を産んだ西郡局です。
西郡局の生涯と鵜殿氏の菩提寺・長応寺を紹介します。
徳川家康の次女・督姫を産んだ側室・西郡局
西郡局は天文17年(1548年)生まれで、三河国宝飯郡(現在の愛知県蒲郡市)を拠点とする柏原鵜殿家の家臣・加藤義広の娘として誕生しました。
鵜殿家は今川氏に仕えていましたが、永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、上郷鵜殿家のみが今川氏に引き続き仕え、柏原鵜殿家を含む庶家は徳川家康に仕えました。
今川義元の跡を継いだ今川氏真には求心力がなく、今川家臣は次々と離反していましたが、柏原鵜殿家が今川氏真に寝返ることを恐れた徳川家康は柏原鵜殿家から側室を迎え、結び付きを強めることにしました。
そこで、鵜殿長忠は加藤義広から娘・西郡局を養子に迎え、永禄5年(1562年)、徳川家康に側室として差し出しました。

西郡局は側室であり、人質でもあったんですね。
永禄8年(1565年)、西郡局は徳川家康の次女・督姫を出産。
督姫の他に子どもを授からなかった西郡局の記録は少なく、慶長11年(1606年)に伏見城で亡くなるまで、どのような生活を送っていたのかは、残念ながら判っていません。
でも、天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって、徳川家康が関東に移封されると、西郡局は徳川家康と共に江戸城へ移りました。
徳川家康の正室・築山殿は弘治3年(1557年)から天正7年(1579年)までの22年間を徳川家康と共に過ごしました。
継室・朝日姫は天正14年(1586年)から天正18年(1590年)までの4年間を徳川家康と共に過ごしました。



それに対して、西郡局が徳川家康と共に過ごした期間は、永禄5年(1562年)から慶長11年(1606年)までの44年間。
側室だったとはいえ、西郡局は徳川家康を正室、継室よりも長く見守っていたんですね。
鵜殿氏の菩提寺・長応寺
西郡局の実父・加藤義広が仕えていた柏原鵜殿家。
紹介したように、柏原鵜殿家は庶家ですが、一族である鵜殿氏は拠点・三河国宝飯郡に菩提寺・長応寺を開いていました。
ところが、永禄5年(1562年)、徳川家康が鵜殿長照を城主とする上ノ郷城を攻めた時、長応寺は戦火により焼失。
徳川家康と共に江戸城へ移った西郡局は、日比谷に長応寺を再興しました。
その後、長応寺は移転を繰り返し、現在は東京都品川区にあります。
まとめ
西郡局の生涯と鵜殿氏の菩提寺・長応寺を紹介しました。
徳川家康の次女・督姫を産んだ後、子どもを授からなかった西郡局の記録は少なく、その生涯を詳しく知ることはできません。
でも、西郡局が徳川家康と過ごした期間は44年間にも及びます。
正室や継室よりも長く徳川家康と過ごした西郡局は、徳川家康を知り尽くした一人かもしれませんね。
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