歴史を取り扱ったドラマや小説、漫画でよく見かけるコンフェイト。
コンフェイトは金平糖(こんぺいとう)の由来であり、語源であることをご存知でしょうか。
日本におけるコンフェイトの歴史、コンフェイトを食べた織田信長がとった行動を紹介します。
コンフェイトは金平糖の由来で語源
雪の結晶のような形をした金平糖。
カラフルでSNS映えする金平糖は、プレゼントやお土産に喜ばれるお菓子ですよね。
金平糖の由来、語源であるコンフェイト(Confeito)は、カステラやボーロと同じ南蛮菓子の一つです。
コンフェイトが日本に伝わったのは、種子島に鉄砲が伝来した天文12年(1543年)から3年が経った天文15年(1546年)のこと。
コンフェイトはポルトガル語で「砂糖菓子」という意味ですが、ポルトガルから伝わったコンフェイトは私達の知っている金平糖ではなく、ただの砂糖の塊でした。
砂糖をただ丸めて固めただけのコンフェイト。
昔からある和菓子に比べたら、美味しくなかったかもしれません。
でも、コンフェイトは当時大人気でした。
というのも、当時、砂糖を輸入に頼っていた日本にとって、砂糖から作られたコンフェイトは貴重品だったからです。
コンフェイトを調味料として使う人が多かったかもしれません。
寛永16年(1639年)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光は鎖国令を出し、ポルトガル船の出入りを禁止します。
そのため、ポルトガルから輸入していたコンフェイトは一時的に入手できなくなりましたが、やがて中国から製法が伝わり、日本でもコンフェイトを製造できるようになります。
そして、日本の菓子職人の技術によって、現在販売されているような華やかな金平糖が誕生しました。
日本で初めて食べたのは織田信長?
紹介したように、コンフェイトが日本に伝わったのは天文15年(1546年)のこと。
その23年後の永禄12年(1569年)、ポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスが織田信長に謁見し、コンフェイトを献上したとされています。
コンフェイトを日本で初めて食べたのは織田信長とされていますが、日本に伝わってから23年もの間、誰もコンフェイトを食べなかったのは不自然です。
おそらく、コンフェイトを食べた日本人の中で、初めて名前を残したのが織田信長、もしくは、初めて食べた戦国武将が織田信長だということだと思います。
ルイス・フロイスは献上品と引き換えに、織田信長から日本におけるキリスト教布教の許可を得ました。
砂糖を輸入に頼っていた日本では、コンフェイトはとても目を引くお菓子。
キリスト教に興味がなくても、コンフェイトには興味が湧きます。
宣教師はコンフェイトを片手に布教活動を行いました。
まとめ
日本におけるコンフェイトの歴史、コンフェイトを食べた織田信長がとった行動を紹介しました。
ポルトガルから伝わったコンフェイトは鎖国により一時的に入手できなくなりましたが、中国から製法が伝わり、日本の菓子職人の技術によって、金平糖が誕生しました。
ポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスからコンフェイトを献上された織田信長は、日本におけるキリスト教布教の許可を出しました。
コンフェイトはキリスト教と共に日本に浸透していったんですね。
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