中国史上唯一の女帝である則天武后がおこした武周革命。
武周革命は世界史の教科書にも登場する重要用語ですが、武周革命とは何でしょうか?
則天武后がおこした武周革命について、詳しくわかりやすく解説します。
則天武后がおこした武周革命とは?
唐の第3代皇帝・高宗の妻として、皇后に冊立された頃から政治手腕を発揮していた則天武后。
第4代皇帝・中宗、第5代皇帝・睿宗が即位しても、則天武后は皇太后として朝廷を動かしていました。
これを武周革命といいます。
武周革命によって変わった5つのこと
武周革命によって大きく変わったことは、次の5つです。
国号を周に改めた
唐が建国される遥か昔、周(紀元前1046年から紀元前256年)という王朝が存在していました。
周の創始者は武王といって、則天武后と同じ姓です。
武王は封神演義にも登場しますね。
皇帝の威厳を示したかった則天武后は「武王の末裔」と称して、国号を周に改め、長安から昔の周と同じ洛陽に遷都しました。
科挙制度を見直した
598年から始まっていた官吏登用試験・科挙。
科挙は世界一難しい試験として有名ですが、実際には、暗記していれば合格できるものでした。
ただ、暗記しなければいけない量が膨大。
儒教の基本を記した「四書五経」を丸暗記しなければいけなかったんです。
暇とお金がないと合格できない科挙は、十分な教育を受けられる名門出身者やお金持ちに有利でした。
また、科挙に合格しても、成績を見て、高い役職に任命されるわけではありませんでした。
当時、重視されていたのは家柄。
家柄の良さを見て役職に任命していたため、成績がどんなに良くても、身分の低い人は高い役職に就けませんでした。
そこで、則天武后は詩賦と殿試(順位を決める試験)を追加し、家柄に関係なく、高い役職に就けるようにしました。
殿試が正式に取り入れられたのは宋(960年)以降ですが、則天武后は先駆けて実施していました。
則天文字を制定した
朝廷で使う文字など、身近な17文字を変更しました。
705年、則天武后が中宗に譲位するまで使用されましたが、則天文字が正式に廃止されたのは100年以上後のこと。
唐の第17代皇帝・文宗が廃止を宣言した837年まで、則天文字を使用していた地域がありました。
官職名を変更した
則天武后の祖先である武王の弟・周公旦が作った周礼に基づき、今まで使用していた官職名に変更しました。
天官は吏部、地官は戸部、春官は礼部、夏官は兵部、秋官は刑部、冬官は工部に該当しました。
そこで、則天武后は、礼部侍郎を春官侍郎、兵部侍郎を夏官侍郎、刑部侍郎を秋官侍郎、工部侍郎を冬官侍郎などと改めました。
家畜の殺生や魚の捕獲を禁止した
浄光天女の生まれ変わりと称していた則天武后は仏教を重んじました。
当時、仏教では殺生はもちろん、魚を食べることも禁止されていました。
そこで、則天武后は殺生や捕獲を禁止しました。
皇后時代に行った2つの改革
武周革命において、則天武后が行った5つの改革を紹介しましたが、実は、高宗が治めていた時代に、則天武后は2つの改革を行っていました。
「姓氏録」の編纂
唐の第2代皇帝・太宗は氏族を格付けした「貞観氏族志」を編纂しました。
則天武后は太宗の側室でしたが、才人という身分が高くない一女官だったため、家柄は問われませんでした。
でも、高宗の皇后となると、話は別。
「貞観氏族志」に武氏一族は掲載されていなかったため、則天武后は武氏一族を名門に加えた「姓氏録」を編纂しました。
母が亡くなっても喪に服す
当時、母が生きていて、父が亡くなった場合、3年間喪に服すのが規定でした。
一方、父が生きていて、母が亡くなった場合、1年間喪に服すのが規定でした。
そこで、則天武后は「出産、子育ては母だからこそできること」として、父が生きていて、母が亡くなった場合であっても、父が亡くなった場合と同じように3年間喪に服すように上奏しました。
高宗は則天武后の孝行心に感動し、則天武后の上奏どおりに規定を改めました。
まとめ
則天武后がおこした武周革命について、詳しくわかりやすく解説しました。
武周革命とは、則天武后が皇帝に即位し、国号を周に改めたことを指します。
国号を改めた他、科挙制度が見直したり、則天文字を制定したり、周礼に基づいて官職名を変更したり、仏教を重んじて家畜の殺生や魚の捕獲を禁止したりしました。
武周革命は官吏だけでなく、民の生活にも大きな影響を及ぼしたかもしれませんね。
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