皇帝になった則天武后を支えた側近として有名なのが、宰相・狄仁傑です。
狄仁傑は張柬之を宰相に推薦し、則天武后は張柬之を宰相に任命しましたが、張柬之はどのような人物なのでしょうか。
張柬之の生涯を8つに分けて紹介します。
父・張玄弼のもとに生まれる
張柬之は625年生まれで、襄州襄陽県(湖北省襄陽市)出身。
青城県丞になる
若くして、唐の最高学府である国子監の太学生になり、経書や史書を読み漁りました。
特に周礼、儀礼、礼記の三礼に精通し、周書を編纂した国子監長官・令狐徳棻に才能を見出され、青城県(四川省都江堰市)丞になりました。
中書舎人になる
689年に行われた賢良方生という官吏登用試験で、64歳にも関わらず、受験者1000人の中で成績第一位になりました。
この成績によって、官吏を監察したり、行政を監視したりする監察御史に任命され、後に、詔勅を執筆する中書舎人に出世しました。
合蜀二州刺史に左遷される
694年、阿史那黙啜率いる突厥は、唐と和平協定を結びました。
契丹が唐に攻め込むと、阿史那黙啜は「契丹を討伐する」と約束し、その約束どおり契丹を大破しました。
阿史那黙啜が「娘と唐の宗室を結婚させたい」と言うので、則天武后は甥・武承嗣の子ども・武延秀を阿史那黙啜に送ることにしました。
すると、張柬之は「宗室が異民族の娘と結婚するなんて聞いたことがありません」と言って大反対。
張柬之は則天武后の怒りに触れ、合蜀二州刺史に左遷されました。
張柬之を左遷した後、則天武后は武延秀を阿史那黙啜に送りました。
ところが、698年、阿史那黙啜は武延秀を拘束してしまいました。
阿史那黙啜は武氏ではなく、李氏を婿にしたかったんです。
和平協定を結ぶとすぐ、武延秀は解放されて唐に帰れましたが、則天武后の親戚でありながら、突厥で8年もの間拘束されていたことになります。
宰相になる
合蜀二州刺史に左遷され、地方に埋もれてしまった張柬之。
張柬之が都に呼び戻されるきっかけをつくったのが、則天武后の側近・狄仁傑です。
則天武后は狄仁傑を「国老」と呼んで、とても頼りにしていました。
ある日、則天武后が狄仁傑に「宰相にふさわしい者はいないか」と尋ねたところ、狄仁傑は張柬之の名前を挙げました。
この時、張柬之は既に70代後半。
狄仁傑は「張柬之を登用するなら、早く登用するべきです」と付け加えました。
張柬之を合蜀二州刺史に左遷したのは、他でもない則天武后。
でも、狄仁傑が言うなら間違いないと思ったのか、則天武后は張柬之を都に呼び戻し、宰相に任命しました。
こうして、張柬之はようやく日の目を見ました。
クーデター(神龍の政変)を起こす
狄仁傑が亡くなった後、則天武后は張兄弟という美少年を寵愛し、朝廷内に権力争いが起きたり、政務に滞りが生じたりしました。
また、高齢のため病気で伏せって、寝室から出ず、朝廷に顔を出さないようになりました。
国の危機だと感じた張柬之は、則天武后が療養していたタイミングを見計らって、則天武后の第3子であり、高宗の第7皇子である中宗への譲位を求めるクーデターを起こし、成功させました。
則天武后は張柬之の申し出を受け入れ、中宗に譲位しました。
82歳で亡くなる
病気を患ったため、故郷・襄州に帰りたいと申し出たところ、中宗は張柬之を襄州刺史に任命しました。
おそらく張柬之は引退するつもりで申し出たんだと思いますが、中宗にとって、張柬之はまだまだ手放したくない存在だったんですね。
ところが、中宗が慕っていた則天武后の甥・武三思と対立し、張柬之は新州司馬に左遷されてしまいました。
706年、左遷先で亡くなりました。
中書令、司徒を追贈される
張柬之が亡くなって4年が経った710年、第5代皇帝・睿宗は中書令を追贈しました。
また、810年、死後100年以上経ってから、第12代皇帝・徳宗は司徒を追贈しました。
まとめ
張柬之の生涯を7つに分けて紹介しました。
張柬之がクーデターを起こさなければ、病を患い、美少年に溺れた則天武后が政権を握り続けて、唐は国力を失っていたかもしれません。
徳宗が追贈した司徒は、中国最高位の官職・三公の一つ。
唐の皇帝が張柬之にどれだけ感謝していたかが分かりますね。
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