則天武后は唐の第3代皇帝・高宗の妻ですが、高宗の妻になる前は第2代皇帝・太宗の側室でした。
何故、則天武后は太宗の側室から高宗の妻になったのでしょうか。
また、当時、宮廷には、「媚娘(メイニャン)」、「チヌ」と呼び合う男女がいました。
媚娘とチヌはどのような人物なのでしょうか。
則天武后が高宗の妻になった経緯、媚娘とチヌの正体を紹介します。
則天武后が高宗の妻になった経緯は?
どのような経緯で、則天武后は高宗の妻になったのでしょうか。
太宗の側室になる
太宗の妻・長孫皇后が亡くなった後、士官の子女だった則天武后は14歳の若さで宮廷入りしました。
則天武后は宮廷入りしてすぐに太宗の寵愛を受けますが、しばらくすると寵愛は薄れて遠ざけられてしまいました。
則天武后が宮廷入りして12年が経った頃、太宗は病気で伏せりがちになりました。
太宗との間に子どもを授からなかった則天武后には、出家という運命が待ち構えていました。
出家したくなかった則天武后は、身の回りのお世話をする宦官にお金を渡して、出家せずに済む手立てを探していました。
高宗と恋に落ちる
① 陛下が崩御したら、皇太子・李治(後の高宗)が皇帝になる
② 皇太子が陛下のお見舞いに来る
という情報を仕入れました。
長孫皇后が産んだ第一子・李承乾と第四子・李泰は後継者争いを起こして都を去りました。
宮廷に残った皇子のうち、長孫皇后が産んだのは李治ただ一人。
皇太子に冊立された李治は、太宗の正当な後継者でした。
則天武后は「陛下の看病をしたい」と手を挙げました。
そして、着飾って太宗を看病する后妃が多い中、懐の寒い則天武后は着飾らずに看病しました。
宦官が言っていたとおり、太宗のもとに、李治がお見舞いにやってきました。
床に伏せる太宗の前で、則天武后と李治は初めて顔を合わせました。
着飾らずに太宗の看病をする則天武后に、李治は目を奪われました。
人目を忍んで、二人は熱い視線を交わし、恋に落ちました。
出家中に妊娠する
太宗が崩御した後、則天武后は感業寺に出家しました。
皇帝になった高宗は「父の供養をする」と言ってお寺に通い、二人は愛を育みました。
やがて、則天武后は妊娠し、第一子・李弘を出産しました。
宮廷では、高宗の妻・王皇后と蕭淑妃が寵愛争い、皇太子争いをしていました。
二人に則天武后と子どもの存在を打ち明けるのは、火に油を注ぐようなもの。
高宗は則天武后の存在を打ち明けられずにいました。
高宗の妻になる
高宗が王皇后と蕭淑妃をどんなに恐れていても、則天武后と李弘をお寺に置いておくわけにはいきません。
高宗は則天武后と子どもの存在を打ち明けました。
すると、王皇后は則天武后を宮廷入りさせるように言いました。
則天武后を利用して、高宗の蕭淑妃への寵愛を薄れさせようとしたんです。
ところが、則天武后に夢中な高宗は、蕭淑妃はもちろん、王皇后も寵愛しなくなりました。
こうして、王皇后に代わって、則天武后が皇后になりました。
媚娘とチヌって誰?
則天武后の本名は武照、高宗の本名は李治ですが、二人には幼少期のあだ名があります。
則天武后の幼少期のあだ名は媚娘(メイニャン)、高宗の幼少期のあだ名はチヌです。
朝廷を出て二人きりになると、お互いをあだ名で呼び合いました。
子どもを授かると、お互いを「お母さん」、「お父さん」と呼び合い、夫婦仲が希薄になるという話をよく耳にしますが、名前どころか、幼少期のあだ名で呼び合うというのは、則天武后と高宗がとても仲のいい夫婦だったことがわかりますね。
まとめ
則天武后が高宗の妻になった経緯、媚娘とチヌの正体を紹介しました。
高宗の妻になる前、則天武后は太宗の側室でしたが、太宗の看病をしているうちに、高宗と恋に落ちました。
太宗が崩御した後、則天武后は出家しましたが、出家したお寺で高宗と密会を重ね、懐妊、出産しました。
王皇后や蕭淑妃など、高宗の后妃に対する寵愛は薄れ、則天武后が寵愛を独占し、王皇后に代わって、則天武后が皇后に冊立されました。
則天武后の幼少期のあだ名は媚娘、高宗の幼少期のあだ名はチヌで、朝廷の外ではあだ名で呼び合いました。
オン・オフの切り替えができる夫婦だったんですね。
悪女として知られる則天武后ですが、則天武后と高宗の恋物語を知ると、則天武后の違った一面が垣間見られたのではないでしょうか。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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