事実上の天下人となった織田信長が家臣・明智光秀に討たれた本能寺の変。
本能寺の変が起きる前、徳川家康は織田信長から接待を受けます。
本能寺の変直前に徳川家康が織田信長から安土城で接待を受けた理由と内容を紹介します。
本能寺の変直前に徳川家康が織田信長から安土城で接待を受けた理由
長年にわたって敵対していた武田氏を滅ぼした織田信長と徳川家康。
清洲同盟を結んでいる織田信長と徳川家康は、本来対等の立場です。
・保有している鉄砲の数と兵力
・掌握している商業地の数
に圧倒的な差があり、徳川家康は織田信長に従わざるをえませんでした。
東国を平定した織田信長は、自らの権威を知らしめる目的で富士遊覧を行います。
織田信長が富士遊覧で通過する土地は徳川氏の支配下。
徳川家康は織田信長を接待し、織田信長はその働きぶりを大絶賛しました。
そして、織田信長は、
次は私が(徳川家康を)もてなす!
と言って、徳川家康を安土城に招待しました。
本能寺の変直前に徳川家康が織田信長から安土城で受けた接待の内容
天正10年(1582年)5月15日、徳川家康は穴山信君(梅雪)と共に織田信長の居城・安土城を訪れました。
織田信長は徳川家康を歓迎し、手厚く接待しました。
徳川家康が織田信長から受けた接待の内容は次のとおりです。
織田信長自ら食事を運んだ
織田信長から徳川家康の接待を任されたのは、後に本能寺の変を起こす明智光秀。
【一の膳】明石の蛸、淡路の鯛の焼物、近江の鮒寿司
【二の膳】うるか(鮎の内臓の塩辛)、貝付きのアワビ、はも
【三の膳】キジの塩焼き、ワタリガニ
【四の膳】巻きするめ、しいたけ、鮒汁
【五の膳】マナガツオ、鯛、スズキの刺身
などです。
ところが、明智光秀の用意した鯛から、ほのかに異臭が。
① 「ハゲ頭!」と言って明智光秀を罵倒する
② 明智光秀を接待役から外す
などしました。
そして、明智光秀に代わって、織田信長自ら食事を運び、徳川家康をもてなしました。
舞を楽しんだ
安土城総見寺の本堂の一角には、能舞台が作られていました。
その能舞台で、徳川家康は丹波猿楽による幸若舞の「大織冠」、「田歌」を楽しみました。
丹波猿楽に続いて登場したのは梅若大夫。
ところが、梅若大夫は腰を痛めていて、織田信長の期待に応えるような能を披露できませんでした。
織田信長は梅若大夫を舞台から降ろし、丹波猿楽を呼び戻して再び舞をするよう命じました。
堺を見物した
足利義昭の上洛、室町幕府第15代将軍就任の手助けをした織田信長。
その褒美として、織田信長は堺、大津、草津を直轄地とする許可を得ていました。
安土城を出た徳川家康と穴山信君は、織田家臣・長谷川秀一、西尾義次に案内されて京都に移動。
そして、茶屋四郎次郎の邸宅に9日間滞在した後、大坂から南下して堺に移動し見物を楽しみました。
茶会に出席した
堺を直轄地とした織田信長は、
① 千利休
② 今井宗久
③ 津田宗及
の3人を召し抱え、茶頭(さどう)に任命しました。
堺見物の途中、徳川家康は今井宗久、津田宗及、織田家臣・松井友閑が茶頭を務める茶会に出席。
その翌日、明智光秀が織田信長に反旗を翻す本能寺の変が起きることとなります。
まとめ:安土城での接待は徳川家康と織田信長の最後の交流
本能寺の変直前に徳川家康が織田信長から安土城で接待を受けた理由と内容を紹介しました。
織田信長から安土城で接待を受ける前、徳川家康は織田信長の富士遊覧で接待していました。
徳川家康が織田信長から接待されたのは、そのお返しです。
① 安土城では、織田信長自ら運んだ食事や舞を楽しむ
② 堺では、町を見物し、茶会を楽しむ
などしました。
徳川家康を楽しませ、精一杯もてなした織田信長。
まさか、この翌日に討たれるなんて思ってもいなかったのではないでしょうか。
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