徳川家臣・夏目広次は三河一向一揆で一向衆に加わり、徳川家康に剣を向けました。
でも、一揆が収束した後、徳川家康に忠誠を誓い、三方ヶ原の戦いで亡くなりました。
三河一向一揆で徳川家康を裏切るも最期は三方ヶ原の戦いで身代わりになって討死した夏目広次(吉信)の生涯を紹介します。
三河一向一揆で徳川家康を裏切る
永正15年(1518年)、夏目広次は父・夏目吉久と母・水野氏の間に誕生しました。
永禄4年(1561年)、徳川家康の命を受けて今川軍と戦い、三河長沢城を攻略。
翌年の三州八幡合戦では、今川軍に敗北した徳川軍を無事退却させるために、殿を務めて戦いました。
功績を認められた夏目広次は、徳川家康から備前長光作の脇差を贈られました。
永禄6年(1563年)、一向衆が蜂起し、三河一向一揆が勃発。
一向宗(浄土真宗本願寺派)の信徒だった夏目広次は、一向衆に加勢しました。
大津半右衛門や乙部八兵衛、久留正勝と野羽城に籠城し、徳川家康と戦います。
やがて、乙部八兵衛が夏目広次を裏切り、徳川家康に寝返ると、野羽城は陥落。
夏目広次は捕らわれてしまいます。
でも、徳川家康は、
夏目広次を殺す必要がない。
と言って、一向衆に加勢した罪を咎めませんでした。
この後、夏目広次は徳川家臣・松平伊忠に仕えますが、松平伊忠は徳川家康に仕えられるよう手配。
夏目広次は再び徳川家康に仕えることとなりました。
三方ヶ原の戦いで身代わりになり討死
三河一向一揆から約10年が経った元亀3年(1572年)、徳川家康は甲斐国の武田信玄と三方ヶ原台地で激突。
徳川家康の人生最大の敵ともいわれる三方ヶ原の戦いが勃発しました。
三方ヶ原の戦いの前哨戦である
・一言坂の戦い
・二俣城の戦い
で敗北し、多くの兵を失っていた徳川家康。
戦いの準備が整っていなかったこともあり、徳川軍はあっという間に敗北してしまいます。
浜松城で留守を任されていた夏目広次は、櫓に登って戦況をうかがっていました。
でも、徳川軍に異変が生じたと知るなり、三方ヶ原台地に駆けつけました。
そして、林道の脇に隠れて反撃のチャンスを狙っていた徳川家康に偶然出会いました。
勝ち目はないと言って、夏目広次は徳川家康を止めますが、徳川家康は応じません。
夏目広次は徳川家康の兜を奪い、頭に被りました。
そして、自分の兜を徳川家康に被せると、馬の向きをグッと変えて武田軍に突撃しました。
この時、夏目広次が叫んだ一言は「私が徳川家康だ!首を討ち取ってみろ!」
三方ヶ原の戦いが始まったのは夕方。
それから既に2時間が経過していて、辺りは真っ暗でした。
兜で人物を判断していた武田軍は徳川家康の首を家取ろうと、次々と襲いかかります。
夏目広次は55歳で討死しました。
夏目広次が亡くなってから30年が経とうとしていた頃。
夏目広次の五男・夏目吉次は同僚と喧嘩し、同僚を斬り殺してしまいました。
斬り殺した罪から逃れようと、夏目吉次は名前を変えて徳川氏に仕えました。
関ヶ原の戦いが起きた慶長5年(1600年)。
・夏目吉次が罪を犯していたこと
・名前を変えていたこと
が判明します。
でも、徳川家康は「父・夏目広次のおかげで、私はこうして生きている」と言って、夏目吉次を咎めず、三男・徳川秀忠の家臣に仕えるよう手配しました。
まとめ:三河一向一揆の罪を許された夏目広次の忠義
三河一向一揆で徳川家康を裏切るも最期は三方ヶ原の戦いで身代わりになって討死した夏目広次(吉信)の生涯を紹介しました。
実は、夏目漱石は夏目氏の後裔、夏目広次の子孫にあたります。
徳川家康が夏目広次と夏目吉次を許していなければ、夏目漱石は誕生しなかったかもしれません。
徳川家康の寛大な処置に感謝ですね。
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