徳川家康がたぬき親父と呼ばれる4つの理由

豊臣秀吉を猿と呼んだり、斎藤道三をマムシと呼んだりと、動物に例えられることの多い戦国武将。
徳川家康はたぬき親父と呼ばれていますが、何故、徳川家康はたぬき親父と呼ばれているのでしょうか。

徳川家康たぬき親父と呼ばれる4つの理由を紹介します。

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たぬき親父とは?

徳川家康がたぬき親父と呼ばれる理由を紹介する前に、たぬき親父とはどのような人を指すのか、意味を確認しておきましょう。

おゆう
おゆう

アニメや絵本で、たぬきが頭に葉っぱをのせて変身するシーンを見たことのある方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

昔からたぬきはいろいろな姿に変身して、人間を騙してきました。
このことからたぬき親父とは、(表向きは)いい人に見えるけれども、ずる賢く、うまく立ち回る人を指します。

たぬき親父は男性を指す言葉です。
たぬき親父のような性格の女性は女狐といいます。

徳川家康がたぬき親父と呼ばれる4つの理由

たぬき親父がどのような人を指すのか、意味を確認したところで、徳川家康がたぬき親父と呼ばれる4つの理由をみていきましょう。

三河一向一揆で結んだ和議を破棄したから

永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆。

徳川家康は家臣まで加わった一揆衆と戦い、なんとか勝ち続けます。

永禄7年(1564年)1月、小豆坂の戦いで勝利した徳川家康は、一揆衆に和議をもちかけました。
守護使不入の特権を与えるなど、一揆を起こす前の状態に戻すと約束したんです。

ところが、一揆衆を解体するなり、徳川家康は浄土真宗本願寺派の寺に改宗を迫り、改宗に応じない寺を次々と破壊。
また、僧を三河から追放しました。

一揆に参加した者達は話が違うと当然怒りました。

すると、徳川家康は「一揆を起こす前の状態に戻しただけじゃないか。元々この辺りは寺も何もない野原だったんだから」と言い返しました。

確かに、徳川家康の言うとおり、元々野原だったかもしれませんが、徳川家康の意地悪な一面が垣間見えますね。

石田三成が関ヶ原の戦いを起こすよう仕向けたから

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)と五奉行(石田三成、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以)を呼び出し、「三男・豊臣秀頼をサポートしてほしい」と言い残して、この世を去りました。

豊臣秀吉には長男・羽柴秀勝(石松)、次男・豊臣鶴松(鶴松)がいましたが、二人とも既に亡くなっていました。

豊臣秀頼は当時5歳で、五大老の筆頭である徳川家康と五奉行の筆頭である石田三成は、豊臣秀頼を利用して実権を握ろうと対立するようになりました。
また、石田三成は長年一緒に豊臣秀吉に仕えてきた加藤清正と対立しました。

加藤清正から命を狙われていると、身の危険を感じた石田三成は徳川家康に仕方なく相談しました。

すると、徳川家康は石田三成に佐和山城に隠れるようアドバイスをしました。
事実上の隠居です。石田三成は徳川家康のアドバイスに従って、佐和山城に移り、徳川家康は大坂城西の丸に入って政務を行いました。

石田三成を追い出し、実権を握ることに成功したものの、徳川家康は石田三成が戻ってくるのではないかと心配になりました。

徳川家康は石田三成を討とうと考えましたが、理由もなく石田三成を討っては周囲の信用を失ってしまいます。
やがて、石田三成を討つ言い訳を探すようになりました。

おゆう
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慶長5年(1600年)4月、豊臣秀頼の命と称して、徳川家康は上杉景勝を大坂城に呼び出しました。

上杉景勝の拠点は会津。
上杉景勝は大坂城にすぐに駆けつけず、豊臣秀頼の命に背く形となってしまいました。

そこで、上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、徳川家康は上杉景勝を征伐するという口実で大阪城を出発しました。

徳川家康の本当の目的は、伏見城の守りが手薄になったと見せかけて、石田三成に伏見城を攻めさせること。

徳川家康に連れ出されるように、石田三成は伏見城を取り囲んでしまいました。

石田三成の味方を褒美で釣ったから

石田三成が伏見城を取り囲んだと知った徳川家康は、会津から急いで引き返し、味方となっていた大名や家臣を呼び出して、石田三成と戦う意思を示しました。

おゆう
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徳川家康の味方であっても、石田三成と戦いたくなかった大名は黙り込みました。

すると、徳川家康と事前に打ち合わせをしていた福島正則が「徳川家康の味方をする」と皆の前で宣言しました。
福島正則の宣言により、徳川家康の味方をして石田三成を討とうという雰囲気が生まれ、他の大名も次々と徳川家康の味方をすると宣言。

徳川家康にも、石田三成にも味方をしようとしない中立的な立場を取る大名には、「豊臣秀頼を追い詰めたり、傷つけたりするようなことはしない」、「手柄を立てたら、褒美を与える」と手紙を送りました。

続いて、石田三成の味方をすると宣言した大名にも、同じ手紙を送り、石田三成から味方を奪いました。

徳川家康の送った手紙は、2ヶ月間で160通を超えるといわれています。

大阪冬の陣で結んだ和議を利用して、豊臣家を滅ぼしたから

慶長19年(1614年)11月に起きた大阪冬の陣。

豊臣家の兵力は徳川家康の兵力に劣っていましたが、大阪城には立派な外堀があり、豊臣秀頼は外堀を活かして籠城戦に持ち込みました。
大阪城を落とせないと判断した徳川家康は、豊臣秀頼に和議をもちかけました。

「大阪城の外堀を埋めれば、大阪城を攻めない」と約束したんです。

籠城戦に成功したものの、徳川家康の兵力を恐れていた豊臣秀頼は、徳川家康の要求どおり、大阪城の外堀を埋めました。
そして、慶長20年(1615年)5月、徳川家康は豊臣秀頼との和議を破棄し、大阪城に攻め込みました。

豊臣秀頼が徳川家康との約束を守り、外堀を埋めてしまったため、前回のように籠城戦に持ち込むことができません。
難攻不落と言われた大阪城は炎上し、豊臣秀頼は自害。

徳川家康は和議を利用して、豊臣家を滅ぼしたんですね。

まとめ

徳川家康たぬき親父と呼ばれる4つの理由を紹介しました。

徳川家康がたぬき親父と呼ばれる理由には、三河一向一揆で結んだ和議を破棄したから、石田三成が関ヶ原の戦いを起こすよう仕向けたから、石田三成の味方を褒美で釣ったから、大阪冬の陣で結んだ和議を利用して豊臣家を滅ぼしたからです。

辛抱強い徳川家康はずる賢さも持ち合わせていたんですね。

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