徳川家康の三男・秀忠の母は西郷局(於愛の方)!死因には築山殿が?

江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室・西郷局。

西郷局の死因には、築山殿が関わっているといわれています。

西郷局於愛の方)の生涯と死因を紹介します。

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徳川家康の三男・秀忠の母・西郷局(於愛の方)の生涯

西郷局(さいごうのつぼね)は天文21年(1552年)もしくは永禄4年(1561年)生まれ。
今川家臣で西郷十八士の一人である戸塚忠春の娘として誕生しました。

通称は於愛の方(お愛の方)です。

西郷義勝と結婚する

結婚後すぐに夫に先立たれ未亡人となった西郷局は、同じく妻に先立たれていた従兄・西郷義勝と再婚。

西郷義勝との間に、西郷勝忠を授かりました。

西郷義勝と死別する

元亀2年(1571年)、武田家臣・秋山虎繁が三河に侵攻します。

西郷義勝は徳川家康に仕えていた菅沼定盈から援軍の要請を受け、設楽郡竹広で行われた合戦に出陣。

武田軍を退却させることはできましたが、西郷義勝は討死してしまいました。

幼少だった西郷勝忠は、(年齢を理由に)西郷義勝の跡継ぎとして認められませんでした。

徳川家康の側室となる

徳川家康が西郷清員の邸宅を訪れた際、西郷局は徳川家康にお茶を振る舞いました。

徳川家康は美人で、性格も穏やかな西郷局に一目惚れ。

西郷局は徳川家康の側室に迎えられることとなります。
出自に箔を付ける目的で、西郷清員の養女となりました。

西郷清員の出身である三河西郷氏は、室町時代初期に三河守護代を務めた名家でした。

徳川秀忠と松平忠吉を出産するも、38歳で亡くなる

西郷局は、
① 天正7年(1579年)4月に徳川家康の三男・徳川秀忠
② 天正8年(1580年)9月に徳川家康の四男・松平忠吉
を出産。

ところが、天正17年(1589年)、38歳の若さで亡くなりました。

西郷局は強度の近眼で、盲目の女性を助けていました。
西郷局の死後、西郷局に助けてもらった多くの女性達が寺門の前で祈りを捧げたといわれています。

慶長10年(1605年)、徳川秀忠が江戸幕府第2代将軍になると、西郷氏は優遇されます。
例えば、西郷局が西郷義勝との間に授かった西郷勝忠は、徳川家康の十男・徳川頼宣に仕えました。

でも、寛永8年(1632年)に徳川秀忠が54歳で亡くなると、西郷氏は優遇されなくなります。
第5代将軍・徳川綱吉(1680年から1709年在職)の治世では、大名から旗本の座に転落してしまいました。

西郷局(於愛の方)の死因には築山殿が?

紹介したように、西郷局は天正17年(1589年)に38歳の若さで亡くなりました。

二人の夫に先立たれた西郷局は徳川家康の側室として迎えられましたが、
・高天神城の戦いや天目山の戦いでは、武田勝頼と戦う
・天正壬午の乱では、北条氏、上杉氏と戦う
・賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家と戦う
・小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉と戦う
など、徳川家康は戦を何度も重ねていました。

徳川家康や徳川家臣の身を心配した西郷局は精神的に疲労を感じていたのかもしれません。

また、
① 天正7年(1579年)4月に徳川秀忠
② 天正8年(1580年)9月に松平忠吉
を出産し、身体的に疲労を感じていたのかもしれません。

そのため、西郷局の死因は疲労によって患った病だといわれています。

おゆう
おゆう

ところが、徳川家康の正室・築山殿(瀬名)の侍女に毒殺されたともいわれています。

天正7年(1579年)9月、築山殿と長男・信康は敵対していた武田氏に内通していた疑いで殺されました。

徳川家康と築山殿の夫婦仲は結婚当初から冷え切っていました。

西郷局が徳川秀忠を出産したのは、築山殿が殺される5ヶ月前。
築山殿の侍女は徳川家康が側室(西郷局)を愛したことを許せなかったのかもしれませんね。

まとめ:西郷局は築山殿の侍女に殺されたかもしれない…

西郷局於愛の方)の生涯と死因を紹介しました。

徳川家康には20人もの側室がいましたが、その中で、西郷局が最も寵愛を受けたといわれています。
徳川秀忠が徳川家康のように長生きしていたら、西郷氏は栄華をより極めることができたのかもしれませんね。

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