徳川家康の家臣まで裏切った三河一向一揆の原因をわかりやすく解説

家臣を信頼し、そして、家臣から信頼されていた徳川家康。
近年では、徳川家康の発揮したリーダーシップが研究され、徳川家康が家臣に気を配って行動していたことが分かっています。

でも、家臣を思いやっていた徳川家康も、家臣に裏切られ、家臣と剣を交えたつらい経験があります。

徳川家康家臣まで蜂起した三河一向一揆原因(発端)から収束までの経過をわかりやすく解説します。

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三河一向一揆とは?

三河一向一揆とは、永禄6年(1563年)に徳川家康の本拠地・岡崎城の周辺で勃発した一向一揆です。

一向一揆は一揆の一つ。

一揆には、
① 土(徳政)一揆
その土地に住む民が荘園領主、守護大名、幕府に対して徳政令(借金の帳消し)を求めて起こすもの
② 国一揆
地侍(主君のいない権力者)が領主や守護大名に対して更なる権力を得るために起こすもの
③ 百姓一揆
百姓が領主や幕府に対して年貢の軽減を求めて起こすもの
④ 一向一揆
一向宗(浄土真宗)の信徒が守護大名や幕府に対して寺の領土の自治権を求めて起こすもの
などがあります。

三河一向一揆の原因(発端)から収束

紹介したように、三河一向一揆は永禄6年(1563年)に勃発しました。

収束したのは、なんと半年後。
三河一向一揆の経過を一言で表すのは難しいので、原因(発端)から収束まで順を追って簡単に紹介します。

原因(発端)

三河一向一揆の発端は、徳川家康が岡崎城主となる前、つまり、徳川家康の父・松平広忠が岡崎城主を務めていた頃まで遡ります。

松平広忠は本證寺(愛知県安城市)、上宮寺(愛知県岡崎市)、勝鬘寺(愛知県岡崎市)に、守護使不入の特権を与えました。

守護使不入とは、鎌倉時代に設けられた、特定の公領や荘園などに対する特権です。
幕府によって守護使不入の特権を与えられた公領、荘園などでは、守護や役人が犯罪者を追いかけたり、税を徴収したりする目的で立ち入ることが禁止されていました。鎌倉時代から室町時代、そして、戦国時代へと、時代が移り変わると、幕府ではなく、戦国大名が守護使不入の特権を与えることとなりますが、反対に、特権を剥奪したり、否定したりするようにもなりました。

松平広忠が守護使不入の特権を与えた本證寺、上宮寺、勝鬘寺は、三河の浄土真宗本願寺派の教団の拠点で、三河三ヶ寺と呼ばれていました。

おゆう
おゆう

松平広忠が亡くなり、徳川家康が今川家から独立して、岡崎城主となった後、本證寺で事件が起きます。

永禄5年(1562年)、西尾城主・酒井正親が法に触れた者を追いかけ、本證寺に入って捕らえてしまったんです。

紹介したように、守護使不入の特権を与えられた公領では、犯罪者を追いかける目的で立ち入ることが禁止されています。
犯罪者を追いかけた酒井正親が犯罪者になったんですね。

坊っちゃん
坊っちゃん

また、上宮寺でも大事件が起きます。

徳川家康の家臣・菅沼定顕が上宮寺から米を強制的に徴収してしまったんです。

本證寺、上宮寺、そして、三河三ヶ寺に属する勝鬘寺は、特権を侵害されたと主張。
本證寺の第十代・空誓は浄土真宗本願寺派の教団の信徒を集め、菅沼氏を襲撃しました。

実は、三河には、浄土真宗本願寺派の信徒がたくさんいました。

建保2年(1214年)から20年間かけて、浄土真宗の宗祖・親鸞が関東で布教活動をした際、三河にも立ち寄っていたんです。

信徒には、徳川家康の家臣も含まれていて、浄土真宗本願寺派を熱心に信仰していた家臣も菅沼氏襲撃に加わりました。

おゆう
おゆう

家臣が襲撃に加わったと知ってショックを受ける徳川家康に、更にショックを受けるニュースが飛び込んできます。

家臣に加えて、徳川家康の出身である松平家の庶流・桜井松平家、大草松平家、そして、三河守護家・吉良氏、対立していた今川氏が、徳川家康の勢力を弱めようと、どさくさに紛れて岡崎城を攻撃したんです。

徳川家康は浄土真宗本願寺派の信徒と敵対勢力を同時に相手にしなければいけなくなったんですね。

浄土真宗本願寺派と仲の悪い真宗高田派の寺・桑子明眼寺、菅生満性寺は徳川家康につきました。

収束

永禄7年(1564年)1月11日、針崎、土呂、野寺の一揆衆が徳川家康側の大久保氏の拠点・上和田城を襲撃しました。

おゆう
おゆう

上和田城が落ちそうだと報告を受けた徳川家康は、自ら上和田城に駆けつけ救援。

徳川家康は2発の銃弾を受けましたが、落城せずに済みました。

その後、針崎、土呂の一揆衆と小豆坂・馬頭原で戦い、勝利した徳川家康は、伯父・水野信元を通じて、一揆衆に和議をもちかけました。

和議の内容は、守護使不入の特権を与える、一揆衆の罪を問わない、一揆が起きる前の状態に戻すという一揆衆にとって申し分のないもの。

一揆に参加したものの、徳川家康を裏切ってしまったと罪悪感にさいなまれる者、徳川家康の敵対勢力が加わり、一揆の目的が曖昧になったことで士気の下がった者などが多くいたため、和議はすんなり受け入れられました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

ところが、一揆が収束したのを確認するなり、徳川家康は和議を一方的に破棄。

一揆衆を解体した徳川家康は浄土真宗本願寺派の寺に改宗を迫り、拒否した寺を取り壊しました。
また、三河では、浄土真宗本願寺派を禁教としました。
これにより、浄土真宗本願寺派の僧達は三河を追放されることとなりました。

天正13年(1585年)、徳川家康の乳母・妙春尼(徳川家康の母・於大の方の姉妹)が徳川家康に頼み込み、浄土真宗本願寺派は禁教から外されることとなりました。
実は、妙春尼は浄土真宗本願寺派の熱心な信徒でした。妙春尼が徳川家康に頼み込んでいなければ、浄土真宗本願寺派の信仰が再び認められることはなかったかもしれませんね。

まとめ

徳川家康家臣まで蜂起した三河一向一揆原因(発端)から収束までの経過をわかりやすく解説しました。

永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆では、徳川家康は浄土真宗本願寺派の信徒、徳川家康に抵抗する敵対勢力と同時に戦うこととなりました。

信徒には徳川家康に仕えていた家臣も含まれていました。
徳川家康は一揆を収束させることに成功しましたが、体力的にも、精神的にもつらい経験だったでしょうね。

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