世界史の教科書に登場する安史の乱。
何故、世界史の教科書で、中国で起きた安史の乱をわざわざ取り上げるのでしょうか?
それは、安史の乱が唐の滅亡に大きな影響を与えたからです。
安史の乱の経過と原因、唐に与えた影響を紹介します。
安史の乱とは?
755年に、節度使・安禄山とその盟友・史思明が起こした反乱を安史の乱(安禄山の乱、史思明の乱)と呼びます。
勃発した当初は、反乱をすぐに鎮圧できると考えられていましたが、実際には、763年までの9年間続きました。
安史の乱の経過
9年にわたる安史の乱を、13章に分けてみてきましょう。
安禄山が挙兵する
755年11月、安禄山が幽州(北京市)で挙兵しました。
東村山市の人口に匹敵します。
例えがビミョー。
范陽節度使、平盧節度使、河東節度使の3つを兼任していた安禄山のもとに兵を集中させていたため、唐には動かせる兵がいませんでした。
唐は兵を慌てて募集しましたが、兵は集まっても、戦闘能力は高くありません。
また、唐では反乱が長年起きておらず、武器の手入れを怠っていたため、武器は錆びついて使い物になりませんでした。
反乱から一ヶ月後には、唐の副都・洛陽が陥落しました。
安禄山が燕を建国する
756年1月、洛陽を都に定めて、安禄山は燕を建国しました。
安禄山は大燕聖武皇帝と称して即位しました。
唐軍は洛陽から潼関(陝西省渭南市)に退却しました。
攻撃態勢を整えるために退却したところ、二人は退却した罪で処刑されてしまいました。
潼関を奪われる
雍丘(河南省開封市)で安禄山軍と唐軍が戦い、張巡が大活躍して、今まで負け続けていた唐軍が勝利しました。
唐軍に大きなチャンスが舞い込んできましたが、時の権力者である宰相・楊国忠がそのチャンスを棒に振ってしまいます。
哥舒翰は封常清と高仙芝の後を継いで、潼関に出向きました。
安禄山軍の統率が取れていないと感じた哥舒翰は、安禄山軍をわざわざ攻撃しなくても、時間が経てば、安禄山軍は自滅すると考えました。
つまり、潼関を守り抜いて、時間を稼ぐことが大事だと判断したんです。
ところが、楊国忠は「哥舒翰が安禄山軍を攻撃しないのは、哥舒翰が唐を裏切ろうとしているからだ」と言いました。
唐の第9代皇帝・玄宗は楊国忠の発言を信じ、哥舒翰に進撃するように命じました。
哥舒翰は安禄山軍を攻撃せざるを得なくなり、潼関を出たところを安禄山軍に捕らえられて、安禄山に殺されてしまいました。
玄宗が蜀へ逃げる
期待していた封常清、高仙芝、哥舒翰が次々と敗れ、身の危険を感じた楊国忠は蜀(四川省成都市)に逃げることを提案しました。
楊国忠は蜀出身で、蜀には頼れる人がいました。
756年6月13日、玄宗と宗室、楊氏一族は蜀を目指して、長安を出発しました。
ところが、14日、馬嵬(陝西省咸陽市)に到着した時、左龍武大将軍・陳玄礼が楊国忠を斬りました。
楊国忠が安史の乱の原因だったから、陳玄礼は楊国忠を斬ったんですね。
楊国忠に続いて、楊貴妃の姉・韓国夫人や虢国夫人が斬られ、楊貴妃は自害を命じられてこの世を去りました。
この出来事を馬嵬駅の悲劇と呼びます。
粛宗が即位する
玄宗は皇太子・李亨(後の粛宗)に反乱の鎮圧を命じました。
そして、玄宗自身は蜀を目指して再び移動しました。
756年7月12日、唐の第10代皇帝・粛宗は霊武(寧夏回族自治区銀川市)で即位しました。
蜀に逃げた玄宗が国のトップでは、安禄山軍と戦う唐軍のモチベーションが上がりませんよね。
実際、安禄山軍に負け続けていた唐軍のモチベーションは下がっていました。
そこで、軍を指揮する粛宗が即位すれば、唐軍のモチベーションが高まるだろうと考えたんです。
粛宗は即位した後、玄宗に文を送り、霊武で即位したことを事後報告しました。
粛宗が即位して約2週間後、玄宗は蜀に到着しました。
ウイグル軍が参戦する
756年9月、粛宗はウイグルに援助を求め、第2代ハーン・葛勒可汗は唐を援助することを約束しました。
阿史那承慶を破る
756年11月、阿史那承慶が粛宗の滞在する霊武を襲撃しました。
粛宗はピンチに陥りましたが、ウイグル軍と郭子儀が駆けつけ、唐軍が勝利しました。
安禄山が亡くなり、安慶緒が即位する
757年1月、安禄山は安慶緒と側近・李猪児に暗殺されました。
やがて、安禄山は糖尿病が悪化し、失明して視力を失いました。
視力を失った安禄山は自暴自棄になり、周囲に当たり散らすようになりました。
中でも、一緒にいる時間が長かった安慶緒や李猪児は安禄山から暴行を受けていました。
そこで、安慶緒と李猪児は協力して、安禄山を殺すことにしたんです。
安禄山が亡くなると、安慶緒は燕の第2代皇帝になりましたが、史思明は安禄山を殺した安慶緒を軽蔑し、范陽(河北省保定市)に戻って自立してしまいました。
唐軍が洛陽を奪還する
757年9月、皇太子・李俶(後の代宗)、僕固懐恩、郭子儀が唐軍とウイグル軍の15万人の兵を率いて、安慶緒軍と戦い、洛陽を奪還しました。
粛宗と玄宗は長安に戻りました。
安慶緒が亡くなり、史思明が即位する
唐軍が優勢であることを知った史思明は、唐軍に降伏しましたが、すぐに反旗を翻しました。
史思明は安慶緒を殺して、燕の第3代皇帝になりました。
史思明が亡くなり、史朝義が即位する
760年9月、史思明は洛陽を再び陥落しましたが、長男・史朝義に殺されてしまいました。
史朝義は燕の第4代皇帝になりました。
代宗が即位する
762年4月、玄宗と粛宗が相次いで崩御しました。
唐の第11代皇帝・代宗が即位しました。
安史の乱終結
762年10月、唐軍とウイグル軍が再び洛陽を奪還しました。
史朝義は洛陽から莫亭県(河北省滄州市)へと逃げましたが、このまま逃げ切ることはできないと諦めて自害しました。
安史の乱の原因
安史の乱の直接的な原因は、楊国忠が安禄山を挑発したことにあります。
安禄山はソグド人で、一介の貿易仲介人でしたが、玄宗と宰相・李林甫から気に入られて、平盧節度使に任命されました。
その後、范陽節度使と河東節度使を兼任することになりました。
ところが、李林甫が病死すると、楊国忠が朝廷で権力を握ることになり、安禄山に嫉妬。
楊国忠は安禄山がクーデターを企てていると度々進言しました。
15万人もの兵を束ねていた安禄山。確かに天下を夢見たことはあるかもしれませんが、それを行動に移すかどうかは別。
楊国忠は安禄山の謀反心を引き出そうと、安禄山派の武部侍郎・吉温を左遷したうえで殺し、安禄山を挑発しました。
楊国忠の攻撃を恐れた安禄山は、楊国忠の排除を目的に挙兵することにしたんです。
安史の乱が唐に与えた影響
安史の乱によって、唐は国力を失い、衰退の一途をたどりますが、763年に安史の乱を鎮圧してから907年に滅亡するまで、なんと145年間も存続します。
安史の乱はその後の唐にどのような影響を与えたのでしょうか。
安史の乱が唐に与えた影響は大きく3つあります。
軍事国家から財政国家へ
386年に建国された北魏の時代から、中国では租調庸制という税制が用いられていました。
農作物を育てながら、働かなければいけない租調庸制は民に過酷な生活を強いていました。
そこで、780年、第12代皇帝・徳宗のもとで、宰相・楊炎の提案により両税法が導入されました。
課税内容は戸税(お金)と地税(穀物)で、土地や資産の多さによって、等級が設けられました。
これにより、民の負担を軽減したうえで、財源を確保することができました。
唐は軍事国家から財政国家へと移り変わりました。
外戚政治から宦官政治へ
粛宗が病で倒れると、宦官である側近・李輔国と張皇后が実権を握りました。
粛宗が即位する以前にも、則天武后のもとで武氏宗室が実権を握ったり、第6代皇帝・中宗のもとで韋皇后が実権を握ったり、玄宗のもとで楊国忠が実権を握ったりと、宗室や外戚が実権を握ることはありました。
ところが、李輔国は張皇后を殺して、代宗に即位を勧めました。
玄宗が側近・高力士に正三品という上から数えて5番目の高い官職を与えたことも重なって、以降、唐では宦官が朝廷で実権を握るようになりました。
ウイグルの強大化
唐軍が安史の乱を鎮圧できたのは、ウイグルの協力があったからだといっても過言ではありません。
ところが、実は、ウイグルは唐を裏切って、史朝義の援助要請に応えようとしたことがあります。
これは、ウイグルが唐を滅ぼし、中国を支配する考えをもっていたことを表します。
実際には、ウイグルは唐を滅ぼしませんでしたが、ウイグルは強大化し、唐は西域から撤退せざるを得ませんでした。
まとめ
安史の乱の経過と原因、唐に与えた影響を紹介しました。
宰相・楊国忠の攻撃を恐れた安禄山が、盟友・史思明と共に挙兵して起こした反乱を安史の乱といいます。
安史の乱は唐を軍事国家から財政国家へ、外戚政治から宦官政治へと変化させ、また、ウイグルを強大化させ、唐を西域から撤退させました。
安史の乱の鎮圧後、唐は907年に滅亡するまで145年間存続しますが、この145年間は衰退の一途をたどるばかりでした。
それほど、安史の乱が唐に与えた影響は大きかったんですね。
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