徳川家康に仕えた忍者といえば、服部半蔵正成が有名ですよね。
実は、服部半蔵は服部家の当主が名乗る通称。
服部半蔵と名乗った人物の中でも最も有名だったのが2代目である服部半蔵正成です。
ところが、服部半蔵正成は忍者ではなかったとの見方があります。
槍の名手だった服部半蔵正成の生涯と忍者じゃなかったとされる理由を紹介します。
槍の名手だった服部半蔵正成の生涯
服部半蔵正成は天文11年(1542年)生まれ。
初代・服部半蔵保長の五男(もしくは六男)として誕生しました。
ただ、詳しい経歴は判っていません。
時が来たら出家する目的で、天文17年(1548年)、6歳で松平氏の菩提寺・大樹寺に移りました。
ところが、天文20年(1551年)、出家を拒否し、服部半蔵正成は突如失踪。
実家には戻らず、兄から支援を受けて暮らしました。
16歳で初陣を迎える
幼い頃から、足腰が丈夫で、力の強かった服部半蔵正成。
「寛政重修諸家譜」によると、弘治3年(1557年)、服部半蔵正成は16歳で初陣を迎えたとされています。
今川家臣・鵜殿長持が城主を務めていた三河の宇土城(上ノ郷城)を夜襲し、武功をあげました。
この時、徳川家康は服部半蔵正成に盃と槍を贈ったといわれています。
ただ、当時、
① 徳川家康は今川家で人質生活を送っていて、服部半蔵正成に直々に贈ることは不可能
② 徳川家康の主君は今川義元
だったため、整合性がなく、真実かどうか定かではありません。
150人の伊賀衆を預かる
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを経て、徳川家康は今川家から独立。
服部半蔵正成は渡辺守綱と並んで、旗本馬廻衆となりました。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一向宗の信徒だったものの、服部半蔵正成は徳川家康に従います。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、敵である浅井軍にまぎれ、首を討ち取る機会を狙いました。
途中で正体を見破られましたが、隙を与えることなく敵を討ちます。
功績を認められた服部半蔵正成は若い兵の後見を任されるようになりました。
元亀6年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、一番槍を務めるも大敗。
退却する徳川家康を追いかける武田軍を追い払い、徳川家康の入城後、武田軍と再び戦いました。
服部半蔵正成は150人の伊賀衆を預けられました。
一時的に徳川家康のもとを離れる
天正8年(1580年)の第二次高天神城の戦いで、徳川家康・織田信長連合軍は武田勝頼軍と戦います。
この時、徳川家臣の家来と織田家臣・氏家直昌の家来が些細なことで喧嘩。
浜松に滞在していた服部半蔵正成は現場に駆け付けました。
でも、激しい衝突が続き、氏家家と服部家の両家で死者を出してしまいました。
服部半蔵正成を徳川家から去らせ、別人の首を服部半蔵正成の首として差し出しました。
織田信長がこの世を去るまで、服部半蔵正成は徳川家康のもとを離れて過ごしました。
伊賀越えに随行する
天正10年(1582年)、服部半蔵正成に人生の転機が訪れます。
服部半蔵正成が最功労者といわれている、徳川家康の人生三大危機の一つ・伊賀越えです。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀。
織田信長と清州同盟を結んでいた徳川家康までも命を狙われます。
堺に滞在していた徳川家康は急きょ岡崎城に帰ることとなりました。
堺から岡崎城まで、どのようなルートを使って帰るか。
徳川家康と家臣が協議した結果、伊賀を通ることに決まります。
でも、織田信長の死によって、畿内は混乱を極めていました。
道中、徳川家康と一緒にいた元武田家臣・穴山信君まで襲われて命を落としました。
そこで、伊賀にゆかりのある服部半蔵正成はツテをたどって、伊賀者、甲賀者に救援を要請。
甲賀の郷士・多羅尾光俊、山口定教に助けられ、徳川家康は伊勢の長太へたどり着きます。
その後、船で伊勢湾を通って岡崎城に帰りました。
55歳で亡くなる
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封すると、服部半蔵正成は200人の伊賀衆と8000石を与えられました。
戦の裏方で、ある時は、表舞台で、服部半蔵正成は活躍しました。
慶長元年(1597年)、病を患った服部半蔵正成は55歳で亡くなりました。
服部半蔵正成は忍者じゃなかった!
服部半蔵というと、伊賀忍者をイメージする方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
漫画やアニメで忍者の格好をして、手裏剣を投げていますからね。
私が読んだある小説でも、水遁の術や火遁の術を使いこなし、幻術を見破る服部半蔵が描かれていました。
でも、服部半蔵正成自身は忍者ではなく、あくまで武将。
伊賀忍者を統括する傍ら、戦では槍を使いこなしていました。
槍の現存部分の長さは258センチメートル、重さは7.5キログラム。
忍者の持つ武器は隠し持って移動できるような小型なものが多いですよね。
自身の身長をはるかに超える槍を持って移動するなんて、忍者とはとてもいえません。
服部半蔵正成が忍者であるというイメージは、漫画や小説などによって作り上げられたものだったんですね。
まとめ:服部半蔵正成は自分より大きな槍を用いていた!
槍の名手だった服部半蔵正成の生涯と忍者じゃなかったとされる理由を紹介しました。
幼い頃から、足腰が丈夫で、力の強かった服部半蔵正成は恵まれた体格で、徳川家康の手足となって活躍を支え続けました。
服部半蔵正成が忍者だったのか、忍者ではなかったのかといった研究は、これからも続いていくと思います。
服部半蔵正成の正体の判明する日が楽しみですね。
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