徳川家康は今川氏真、武田信玄、豊臣秀吉など数々の武将と戦いましたが、同じ祖先をもつ松平昌久とも対立しました。
松平昌久とはどのような人物なのでしょうか。
三河一向一揆で徳川家康を裏切った松平昌久の生涯とその後の大草松平家を紹介します。
三河一向一揆で徳川家康を裏切った松平昌久の生涯
松平昌久は大草松平家3代目当主・松平昌安のもとに誕生しました。
大草松平家とは、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)を拠点としていた松平家です。
松平氏当主として、系譜の資料で実在を確認できる松平信光(室町時代中期の武将)には48人もの子どもがいました。
・竹谷松平家
三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)が拠点
・安祥松平家
三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)が拠点
・形原松平家
三河国宝飯郡形原(現在の愛知県蒲郡市形原町)が拠点
・大草松平家
三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)が拠点
・五井松平家
三河国宝飯郡五井(現在の愛知県蒲郡市五井町)が拠点
・能見松平家
三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)が拠点
・長沢松平家
三河国宝飯郡長沢(現在の愛知県豊川市北西部)が拠点
などが各地に置かれました。
松平信光は松平昌久と徳川家康の祖先。
つまり、徳川家康と松平昌久は遠戚でしたが、二人の仲は決して良くはありませんでした。
事の発端は、徳川家康の祖父・松平清康、松平昌久の父・松平昌安の代に遡ります。
大永4年(1524年)、松平清康が松平昌安の支配する山中城を奇襲し、たった一日で落城させてしまったんです。
その後、松平清康は岡崎城をも攻略し、松平昌安は所領を明け渡すこととなりました。
そして、松平昌安は娘・於波留を松平清康に嫁がせて和睦した後、隠居しました。
家督を継いだ松平昌久は大草松平家4代目当主となり、徳川家康に仕えることとなりましたが、永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いで、孫・松平正親を失ってしまいます。
また、主君・今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、徳川家康は今川家を離れ、今川氏真と対立する織田信長と清洲同盟を結びました。
でも、実は、松平昌久は織田信長ではなく、今川氏真と手を結ぶべきだと考えていました。
松平昌久は徳川家康とその先祖を恨んだのか、大草松平家の再興を図ったのか、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆では、一向宗の信徒ではないにも関わらず、一揆衆に加わり、徳川家康に敵対する姿勢を見せました。
松平昌久は徳川家康と対立していた吉良義昭の支配する東条城に籠城します。
ところが、一揆で息子・松平三光は討死し、永禄7年(1564年)2月には、東条城が陥落。
居場所をなくした吉良義昭は三河国を去りました。
頼りにしていた松平三光と吉良義昭を失った松平昌久は行方をくらましました。
その後の松平昌久の消息は判っていません。
その後の大草松平家
三河一向一揆を鎮圧した徳川家康は、大草松平家の領地を没収しました。
徳川家康は一揆衆に加わった松平昌久を許せなかったのかもしれません。
でも、松平昌久のひ孫・松平康安は徳川家康とその長男・徳川信康に仕え、戦で武功をあげました。
元亀3年(1572年)に勃発した二俣城の戦いで初陣を迎え、天正18年(1590年)の小田原征伐では侍大将を務めました。
徳川家康が亡くなった後、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から6000石を与えられ、旗本となりました。
松平康安の息子・松平正朝は常陸国水戸藩で徳川頼房の家老となりましたが、その息子・松平正永には嗣子がいなかったため、大草松平家は松平正永の死をもって断絶してしまいました。
まとめ
三河一向一揆で徳川家康を裏切った松平昌久の生涯とその後の大草松平家を紹介しました。
桶狭間の戦いで孫を、三河一向一揆で息子を失った松平昌久。
怒りを向ける相手が徳川家康ではないと分かりつつも、松平昌久は徳川家康に怒りをぶつけるしかなかったのかもしれませんね。
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