わずか3歳で織田家当主になった織田秀信(三法師)。
跡継ぎには正室の産んだ男の子が選ばれるのが一般的ですが、織田秀信は特殊でした。
織田秀信(三法師)の母の正体、織田秀信が清洲会議で家督相続した理由を紹介します。
織田秀信(三法師)の母は誰?
織田秀信は天正8年(1580年)生まれ。
織田信長の長男・織田信忠の長男として誕生しました。
ただ、
① 塩川長満の娘・鈴
② 森可成の娘・某
③ 武田信玄の娘・松姫
のいずれかとされています。
塩川長満の娘・鈴
徳寿院は織田家臣・塩川長満の次女・鈴ではないかといわれています。
天正10年(1582年)5月、織田信長から中国攻めの命令が出されました。
ところが、本能寺の変が起きたため中止。
塩川長満は豊臣秀吉軍と合流して、明智光秀の動向を探り、山崎の戦いで活躍しました。
森可成の娘・某
徳寿院は織田家臣・森可成の娘ではないかといわれています。
森可成は織田信長の小性・森蘭丸の父。
元亀元年(1570年)に起きた宇佐山城の戦いで、浅井長政・朝倉義景連合軍と戦って討死しました。
武田信玄の娘・松姫
徳寿院は武田信玄の四女・松姫ではないかといわれています。
松姫は永禄4年(1561年)生まれ。
永禄10年(1567年)12月、武田信玄と織田信長が同盟を結んだ証として、織田信忠に嫁ぐことが決まりました。
松姫が当時7歳、織田信忠が当時11歳だったため、結婚は先延ばしに。
ところが、この5年後、松姫と織田信忠は婚約を解消することになります。
元亀3年(1572年)、徳川家康と同盟を結んでいたにも関わらず、武田信玄は徳川家康を裏切り、西上作戦を開始。
徳川家康と清洲同盟を結んでいた織田信長が徳川家康の味方をしたため、武田信玄と織田信長は対立することになりました。
武田信玄と織田信長が同盟を解消したため、二人は結婚する必要がなくなったんです。
天正10年(1582年)3月の天目山の戦いで武田勝頼が自害すると、松姫は八王子に落ち延びます。
松姫の身を案じた織田信忠は使者を送りました。
織田信忠の誘いに応じ、松姫は織田信忠に会いに行きます。
ところが、その道中に本能寺の変が勃発し、織田信忠は討死。
松姫は出家し、武田家と共に織田信忠の冥福を祈りました。
織田秀信が清洲会議で家督相続した理由は?
織田信長には、
① 長男・織田信忠
② 次男・織田信雄
③ 三男・織田信孝
をはじめ、12人の息子がいました。
亡き織田信長の跡を継ぐのは、長男である織田信忠。
でも、紹介したように、織田信忠も本能寺の変で討死しました。
次男・織田信雄は織田家当主に選ばれるものだと思っていました。
ところが、清洲会議を経て、織田信長の跡を継いだのは、
① 次男・織田信雄
② 三男・織田信孝
でもなく、織田信忠の長男・織田秀信でした。
本能寺の変が起きた11日後、豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ちました。
豊臣秀吉と同じ立場である織田家老には、
・柴田勝家
・丹羽長秀
・池田恒興
がいましたが、明智光秀を討った功績により、豊臣秀吉が権力を拡大。
勢いにのった豊臣秀吉は織田政権を引き継ぎつつも解体し、豊臣政権を確立しようと考えていました。
織田信雄、織田信孝は24歳で、45歳の豊臣秀吉が2人を操るのは簡単ではありません。
対して、織田秀信は3歳で、右も左も分からない子どもでした。
そのため、豊臣秀吉は織田秀信を跡継ぎにするべきだと推薦。
柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興は豊臣秀吉に逆らうことができず、容認するしかありませんでした。
まとめ:豊臣政権の確立に利用された織田秀信!
織田秀信(三法師)の母の正体、織田秀信が清洲会議で家督相続した理由を紹介しました。
織田秀信の母・徳寿院が何者かは判っていませんが、
① 塩川長満の娘・鈴
② 森可成の娘・某
③ 武田信玄の娘・松姫
のいずれかとされています。
豊臣秀吉によって、織田信長の跡継ぎにさせられた織田秀信。
織田政権の解体、豊臣政権の確立に利用されたと考えると、可哀想な幼少期を過ごしたかもしれませんね。
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