唐の第3代皇帝・高宗の側室だった即天武后の側近として有名な許敬宗。
許敬宗は李義府と共に、則天武后が皇后になるのをサポートしました。
許敬宗はどのような人物なのでしょうか。
則天武后の側近・許敬宗の生い立ち、悪人エピソードを紹介します。
許敬宗の生い立ち
許敬宗は592年生まれで、高陽郡新城県(河北省保定市)の出身。
文学館学士になる
李義府に同じく、幼い頃から作文が得意で、唐の第2代皇帝・太宗から才能を認められ、文学館学士になりました。
別名のとおり、定員はわずか18人。
その18人に選ばれるほど、許敬宗は優秀な高官でした。
王皇后派を排除し、則天武后の側近になる
文学館学士になった後、中書舎人や給事中、黄門侍郎を歴任します。
第3代皇帝・高宗が即位すると、詔勅を起草する中書令に昇進しました。
王皇后と則天武后が対立すると、李義府と一緒に則天武后の味方をしました。
657年、則天武后と対立する王皇后派の韓瑗、来済、褚遂良に謀反の罪を着せて、左遷に追い込みました。
666年には封禅使に任命されるなど、則天武后が皇后になった後も朝廷で大活躍。
汚職して流罪となった李義府とは異なり、罪に問われるほどの罪を犯さなかった許敬宗は、仕事を引退した後も、感謝の気持ちを込めて給料が支払われました。
672年、81歳で亡くなりました。
許敬宗の悪人エピソード
優秀な祖父、父をもち、自身も高宗と則天武后のもとで大活躍した許敬宗。
そんな許敬宗も悪いエピソードが伝わっています。
悲しむ欧陽詢を笑った
太宗の妻・長孫皇后は性別を問わず慕われていましたが、636年に36歳の若さで亡くなりました。
多くの者が長孫皇后の死を悲しみましたが、中でも特に悲しんだのが書家・欧陽詢。
号泣する欧陽詢を見て、許敬宗は「醜い顔をしている」と笑いました。
歴史書を改ざんした
文章作成に長けていた許敬宗は、歴史書の執筆を任されていました。
でも、許敬宗が執筆した歴史書は真実と嘘が混じり合ったもの。
例えば、娘の夫・銭九隴の身分が低かったため、夫の出身を名門出身だと偽り、長孫皇后の身内と同じページに経歴を記載しました。
その他、高句麗遠征で敗北した龐孝泰から賄賂を受け取り、龐孝泰の軍績を捏造して、英雄のように記載しました。
反対に、許敬宗が恨んでいる者、気に入らない者については、悪く記載しました。
許敬宗のプライドや欲のせいで、歴史が後世に正しく伝わっていないというのは残念ですね。
娘を売った
許敬宗は給料とは別に賄賂を受け取っていましたが、自分の娘を蛮族に嫁がせてお金を受け取りました。
つまり、娘を得体の知れない者に売ったんです。
当時、生活に困窮していた民が娘を売ることはありましたが、お金に困っていない高官が娘を売るなんて前代未聞。
許敬宗が娘を売ったことは宮中に広まり、許敬宗は臣下から軽蔑されました。
許圉師を排除した
自分と同じく太宗、高宗に仕え、自分と同じく姓をもつ許圉師を敵対視していました。
ある日、許圉師の子ども・許自然が狩りを楽しむために、他人の敷地に入りました。
つまり、不法侵入したんです。
ところが、許圉師は許自然の不法侵入罪をもみ消してしまいました。
許圉師を排除する機会をうかがっていた許敬宗は、許圉師が子どもの罪をもみ消したことを嗅ぎつけ、都から許圉師を追い出すように、高宗に進言しました。
結果、許圉師は虔州(江西省贛州市)刺史に左遷となりました。
自分の子どもの罪をもみ消した許圉師も許圉師。
これは悪人エピソードというか、どっちもどっちエピソードかもしれません。
まとめ
則天武后の側近・許敬宗の生い立ち、悪人エピソードを紹介しました。
祖父・許亨、父・許善心の血をひく許敬宗は文章作成に長けていて、文学館学士に任命されたり、歴史書の執筆を任されたりしました。
大きな罪を犯さなかったため、李義府のように流罪となることはありませんでしたが、人の顔を見て笑ったり、歴史書を改ざんしたりするなど、小さな罪はたくさんありました。
則天武后と対立する者を排除した許敬宗と李義府は、則天武后誕生の陰の立役者と言えるかもしれませんね。
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