関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙の宛先と内容、特徴

慶長5年(1600年)に起きた「天下分け目の戦い」とも呼ばれる関ヶ原の戦い。
関ヶ原の戦いが勃発する50日前から、徳川家康は戦国大名に手紙を書き続けました。

関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙宛先内容特徴を紹介します。

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関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙の宛先

関ヶ原の戦いが勃発する50日前から、徳川家康が戦国大名に送った手紙の数は160通にも及びます。

75年の生涯の中で、徳川家康は3700通以上の手紙を送ったとされています。
つまり、関ヶ原の戦いが勃発する50日前から送った160通は、徳川家康の送った手紙全体の約5%を占める計算になります。

徳川家康は普段代筆で手紙を送っていましたが、関ヶ原の戦いが勃発する50日前から送った手紙は直筆。

江戸や大坂をはじめ、滞在する先々から昼夜問わず手紙を書き続けました。
関ヶ原の戦い本戦では、刀を握る力もなかったかもしれませんね。

徳川家康が送った手紙の宛先のほとんどは西軍。
石田三成に味方する戦国大名でした。

関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙の内容

関ヶ原の戦い前、徳川家康は、
① 各国の状況を把握する
② 各国の情報を収集する
目的で、手紙を送りました。

ただ、紹介したように、徳川家康が送った手紙の宛先のほとんどは西軍でした。

西軍は徳川家康が敵対する石田三成率いる軍。
何故、徳川家康はわざわざ敵軍に手紙を送ったのでしょうか。

徳川家康が西軍に手紙を送った目的は、
① 西軍の戦国大名を東軍に取り込む
② 西軍に寝返りそうな戦国大名を確実に取り込む
ためです。

具体的にはどのような内容だったのでしょうか。

東軍につけば加増する

「戦に勝利した暁には、褒美(領地)を与える」というあるあるの内容です。

例えば、徳川家康が伊達政宗に送った手紙。
東軍につけば、50万石を加増すると約束しました。

当時、伊達家の所領は58万石。
徳川家康は伊達家の所領を約2倍に増やすという内容をしたためていたんです。

結果、伊達政宗は東軍につくことを選択しました。

功績を称える

東軍につけば加増するといった手紙を送ることで、戦国大名の取り込みを期待した徳川家康。
その一方で、東軍から西軍に寝返る戦国大名が出ないよう、裏切る可能性のある戦国大名にも手紙を送りました。

例えば、徳川家康が東軍・真田信之に送った手紙。

① 真田信之の父・真田昌幸、弟・真田信繁は西軍に
② 真田信之は東軍に
ついて、どちらが勝利しても、どちらが敗北しても、真田家が存続できるよう工夫した話は有名ですね。

真田親子は覚悟を決めて西軍と東軍に分かれました。
でも、いざとなったら、真田信之が西軍に寝返るかもしれません。

真田信之の寝返りを恐れた徳川家康は、父と弟が西軍につく中、真田信之が東軍についたことを褒め称える手紙を送りました。

責めない

中には、西軍の敗北を予感しながらも、西軍につき続ける戦国大名がいました。
無駄な血を流さないよう、徳川家康は心が折れそうな戦国大名にも手紙を送ります。

例えば、加藤貞泰と竹中重門。
井伊直政を通じて、徳川家康は二人に早く寝返るよう手紙を送っていました。

ところが、二人は徳川家康の誘いに応じず、犬山城に籠城。
そして、岐阜城がついに落城するという知らせを聞いてから、東軍に寝返りました。

今更寝返っても遅い!

と言って処罰されるのではないかと心配していた二人。

でも、徳川家康は二人を責めることなく、適切な判断をしたと褒め称える手紙を送りました。

関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙の特徴

75年の生涯の中で、3700通以上もの手紙を送った徳川家康。
徳川家康が送った手紙には、2つの特徴があります。

相手の懐に入る

現代であれば、メールやLINEなどを使って、自分の考えをリアルタイムで相手に伝えることができます。
また、その場で相手の反応を読み取り、出方を考えることができます。

ただ、メールやLINEなどがない戦国時代は手紙が中心。
手紙が届くまでの間に、差出人と送り相手が心変わりすることも少なくありません。

特に、戦国時代では早い、的確な判断が求められました。

徳川家康は、
・相手が迷っている、悩んでいるタイミングで
・相手の迷い、悩みの種を突き止めて
次々と手紙を送って、相手の懐に入りました。

相手の心を動かす

戦国武将と一言で言っても、情に流される者、冷酷な者、義を貫く者、嘘を繰り返す者など、さまざまな性格の戦国武将がいます。

多くの戦国武将と剣を交え、また、膝をつき合わせ、乱世を駆け抜けてきた徳川家康。
徳川家康は戦国武将の性格や個性を見抜き、相手にあわせた手紙を書きました。

例えば、関ヶ原の戦いの前に行われた小山評定では、徳川家康の事前に行った根回しが功を奏したといわれています。

石田三成といずれ戦うことになると予測していた徳川家康。
石田三成が挙兵したという知らせを聞くなり、小山に戦国武将を集め、小山評定を行いました。

小山評定の議題は石田三成と戦うか、戦わないか。

石田三成の力を削ぐ必要があると思っていた徳川家康は、石田三成を討つムードを作り出さなければいけませんでした。

そこで、徳川家康は石田三成と対立していた、また、血気盛んだった福島正則に注目。
小山評定を行う前に、徳川家康は福島正則に手紙を送ります。

手紙の内容は、
① (同じく石田三成と対立していた)黒田長政から大事な話がある
② まずは、小山に集まってほしい
の2点。

徳川家康の送った手紙には、具体的な内容が全く書かれていませんでした。

内容が気になった福島正則は小山に足を運び、黒田長政から石田三成を討つ話を聞きます。

小山評定で石田三成と戦うか、戦わないかという議題が挙がるなり、誰よりも早く石田三成を討つ姿勢を見せた福島正則。
福島正則に触発された戦国武将は次々と石田三成を討つことに賛同しました。

まとめ:徳川家康は剣より筆を握っていた!

関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙宛先内容特徴を紹介しました。

関ヶ原の戦い前に徳川家康が送った手紙の宛先のほとんどは西軍。

① 西軍の戦国大名を東軍に取り込む
② 西軍に寝返りそうな戦国大名を確実に取り込む
ために、徳川家康は160通もの手紙を書き続けました。

人の心を掴み、動かす徳川家康の文章術。
私達も真似をしていきたいですね。

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