北条氏直に嫁いだ徳川家康の次女・督姫!毒饅頭事件とは?

徳川家康の次女・督姫は、北条氏直池田輝政に嫁ぎました。

実子・池田忠継を溺愛した督姫。
池田輝政が前妻との間に授かっていた池田利隆を暗殺しようと、毒饅頭事件を起こしてしまいます。

徳川家康の次女・督姫の生涯、毒饅頭事件の真相を紹介します。

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徳川家康の次女・督姫は北条氏直と池田輝政の妻!

督姫は永禄8年(1565年)生まれ、
徳川家康と側室・西郡局の間に次女として誕生しました。

天正3年(1575年)に生まれたという説もあります。

北条氏直に嫁ぐ

天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きました。

この時、織田信長の長男・織田信忠も自害に追い込まれ、織田家当主は一時的に不在になります。

甲州征伐で織田信長が手に入れた旧武田領(甲斐国と信濃国)は、
① 武田氏に従っていた国衆が反乱を起こす
② 旧武田領を任されていた織田家臣が逃げ出す
など、大混乱に陥りました。

そして、領主が不在となった旧武田領を巡って、
① 徳川家康
② 相模国の北条氏政・氏直親子
③ 越後国の上杉景勝
の間で天正壬午の乱が勃発します。

結果、徳川家康が勝利をおさめましたが、旧武田領を継ぐはずだった織田信長の子どもは複雑な心境に。

そこで、織田信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝は和睦するよう勧めます。

徳川家康と北条氏政は、
① 督姫を北条氏直の正室として嫁がせること
② 甲斐国、信濃国は徳川家康、上野国は北条氏政の統治とすること
の2つの条件をのんで和睦しました。

天正11年(1583年)8月、督姫は北条氏直に嫁ぎます。

北条氏直との間に、
① 摩尼珠院
② 万姫
の2人の娘を授かりました。

未亡人となる

督姫と北条氏直が結婚し、徳川家と北条家は姻戚関係を築きました。

両家の関係にヒビが入ったのは、それから7年後の天正18年(1590年)。
要請しても上洛しない北条氏政にしびれを切らした豊臣秀吉は北条家の本拠地・小田原城を攻めました。

徳川家康は北条家と豊臣家のどちらにつくかを悩みました。
というのも、徳川家康と豊臣秀吉も姻戚関係を築いていたからです。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの結果、
① 徳川家康は次男・結城秀康を豊臣秀吉に養子として
② 豊臣秀吉は妹・朝日姫を徳川家康に継室として
差し出し、和睦しました。

北条家と豊臣家に挟まれてしまった徳川家康。
降伏するよう呼びかけましたが、北条氏政は小田原城に籠城し続け、呼び掛けに応じませんでした。

豊臣秀吉が優勢になると、北条氏直は兵の命を助けることを条件に降伏します。

北条氏直は高野山に流刑となり、督姫も高野山に移り住みました。
ところが、高野山に移ってすぐに北条氏直は亡くなり、督姫は未亡人となりました。

池田輝政に嫁ぐ

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉に薦められて、豊臣家臣・池田輝政に継室として嫁ぎました。

二度目の政略結婚でしたが、督姫と池田輝政の夫婦仲は良く、
① 池田忠継
② 池田忠雄
③ 池田輝澄
④ 池田政綱
⑤ 池田輝興
の5人の息子と千姫、振姫の2人の娘を授かりました。

慶長18年(1613年)、池田輝政が亡くなります。
相続の手続きをするために、督姫は駿府に向かいました。

徳川家康は二人の夫に先立たれた督姫を気遣います。
駿府でしばらく暮らすよう督姫に言い渡し、二人は約30年ぶりに親子の時間を楽しみました。

慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣では、池田忠継が出陣。
督姫は家臣と手紙をやり取りし、池田忠継の活躍と無事を祈りました。

慶長20年(1615年)、督姫は徳川家康に会おうと二条城に向かいます。

ところが、疱瘡(天然痘)にかかって、41歳(もしくは、51歳)で亡くなりました。

義理の息子・池田利隆を暗殺するべく起こした毒饅頭事件とは?

紹介したように、督姫は池田輝政に継室として嫁ぎました。

督姫が嫁ぐ前、池田輝政は織田家臣・中川清秀の娘である糸子と結婚し、長男・池田利隆を授かりました。

坊っちゃん
坊っちゃん

池田利隆は督姫が産んだ池田忠継より15歳年上。

池田忠継はわずか5歳にして岡山城主に任命されましたが、5歳では当然政務を行えません。
そこで、姫路城主を務めていた池田利隆が池田忠継に代わって政務を行いました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

姫路城主を務めながら、岡山城の政務をこなす池田利隆。
池田忠継にとって頼もしく、尊敬できる兄だったに違いありません。

でも、督姫は池田利隆をよく思っていませんでした。

池田輝政の跡継ぎが(池田忠継ではなく)池田利隆だったからです。

長男が父の跡を継ぐのは一般的で、何もおかしいことはありません。

でも、督姫にとって、自分の産んだ池田忠継が一番。
池田輝政の跡継ぎが池田忠継ではないことを、督姫は許せませんでした。

そこで、督姫は、

池田利隆さえいなくなれば、池田忠継が跡継ぎになる…

と考え、池田利隆の暗殺を企てました。

池田利隆が岡山城を訪れた際、督姫は饅頭に毒を盛り、池田利隆に差し出しました。
ところが、池田利隆は饅頭に手をつけようとしません。

おゆう
おゆう

侍女が手のひらに文字を書いて、毒が饅頭に入っていることを知らせていたからです。

池田忠継は池田利隆が饅頭を食べようとしないことを不思議に思います。
そして、督姫が池田利隆を暗殺しようとしていることに気付きました。

兄と母を失いたくなかった池田忠継は饅頭を奪い取り、池田利隆の代わりに食べて亡くなりました。

督姫の目の前でもがき苦しみ亡くなった池田忠継。
督姫は取り返しのつかないことをしてしまったと後悔しました。

督姫は残った饅頭を食べて、池田忠継の後を追うように亡くなりました。

ただ、紹介したように、督姫の死因は疱瘡(天然痘)とされています。

そのため、督姫が毒の入った饅頭を食べて亡くなったことはもちろん、
・督姫が饅頭に毒を盛って池田利隆を暗殺しようとしたこと
・池田利隆をかばって池田忠継が亡くなったこと
は定かではありません。

毒饅頭事件と呼ぶより、毒饅頭伝説と呼ぶほうが適しているのかもしれませんね。

まとめ:毒饅頭事件で亡くなったのは、督姫の実の息子!

徳川家康の次女・督姫の生涯、毒饅頭事件の真相を紹介しました。

二人の夫に先立たれ未亡人となった督姫。
仲の良かった池田輝政を見送ったからこそ、督姫は池田忠継を溺愛してしまったのかもしれません。

池田忠継の後を追うように亡くなった督姫。
あの世で、督姫と池田忠継はどのような会話を交わしたのでしょうか。

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