戦国大名としての今川家の滅亡には、徳川家康が大きく関わっています。
でも、徳川家康は今川氏真を殺そうとしませんでした。
掛川城を攻めた徳川家康が今川氏真を殺さなかった3つの理由を紹介します。
今川氏真は幼馴染み
今川家の人質として幼少期を過ごした徳川家康。
人質といっても、徳川家康は幽閉生活を送っていたわけではありません。
今川義元は徳川家康に家庭教師をつけ、将来自分の片腕として活躍できるよう大事に育てました。
徳川家康に同じく、今川家には、天文7年(1538年)生まれの今川義元の長男・今川氏真が住んでいました。
天文11年(1542年)生まれの徳川家康。
徳川家康にとって、今川氏真は幼馴染みであり、兄のような存在。
徳川家康は有馬満盛や奥山公重から、今川義元は塚原卜伝から剣術を学んでいました。
ドラマや小説で描かれているように、二人で剣術の稽古をしたり、時には対決をしたりしていたかもしれませんね。
今川氏真は義理の従兄
弘治3年(1557年)、徳川家康は今川家臣・関口氏純と今川義元の妹の間に生まれた築山殿と結婚しました。
つまり、徳川家康にとって、今川氏真は義理の従兄となります。
幼馴染みのように、兄弟のように育った徳川家康と今川氏真。
徳川家康が築山殿と結婚したことで、二人は本当に親戚になったんですね。
武田信玄の三河侵攻に備えた
天文23年(1554年)、
① 駿河国・遠江国の今川義元
② 甲斐国の武田信玄
③ 相模国の北条氏康
は三者間で甲相駿三国同盟を結びました。
今川義元は娘・嶺松院を武田信玄の長男・武田義信に嫁がせます。
また、北条氏康は娘・早川殿を今川義元の長男・今川氏真に嫁がせ、それぞれで姻戚関係を築きました。
ところが、永禄10年(1567年)。
駿河・遠江の獲得を視野に入れていた武田信玄は、武田義信と嶺松院を離縁させ、嶺松院を今川家に送り返しました。
また、武田信玄は「今川家を滅ぼして、今川家の領土を分割しよう」と徳川家康に提案。
徳川家康は武田信玄と手を結び、武田信玄は駿河に攻め入り、徳川家康は遠江に攻め入りました。
でも、遠江に侵攻しながら、周辺国の動向に注目していた徳川家康は、武田信玄を疑っていました。
もし、徳川家康が今川氏真を討ったら…
徳川家康は今川氏真の義父・北条氏康と戦うことになるかもしれません。
北条氏康と戦っている間に、武田信玄の攻撃を受けたら、徳川家康は負けてしまいます。
いざという時には、今川氏真、北条氏康と手を組んで武田信玄に対抗できるよう、徳川家康は今川氏真を討ちませんでした。
徳川家康は、
・東にある笠町砦
・南にある青田山砦
・西にある金丸山砦
・北にある龍穴峰砦
の四方向から掛川城を包囲し、掛川城の兵糧、弾薬を枯渇させ、降伏、開城を促し続けました。
掛川城主・朝比奈泰朝は今川氏真の命を助けることを条件に開城。
今川氏真は戸倉城に移り、北条家で保護されました。
まとめ:今川氏真は徳川家康と北条氏のパイプ役
掛川城を攻めた徳川家康が今川氏真を殺さなかった3つの理由を紹介しました。
徳川家康にとって、今川氏真は幼馴染みで義理の従兄弟。
身近で失いたくない存在だったと考えられます。
また、武田信玄を疑っていた徳川家康にとって、今川氏真は切り札でした。
掛川城を攻めた時、徳川家康は25歳でしたが、既にたぬき親父だったのかもしれませんね。
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