天正壬午の乱の後、徳川家康は行方をくらます馬場信春の娘を側室に迎えることにします。
そこで、徳川家康は鳥居元忠を呼び出し、馬場信春の娘を探し出すよう命じました。
ところが、鳥居元忠は馬場信春の娘を居城に匿い、自らの側室に迎えてしまいます。
鳥居元忠が徳川家康を裏切って馬場信春の娘を側室に迎えていたエピソードを紹介します。
徳川家康が馬場信春の娘を側室に迎えたかった理由
天正10年(1582年)に起きた天正壬午の乱で勝利を治めた徳川家康。
これにより、三河国、遠江国、駿河国に加えて、甲斐国、信濃国を統治することになりました。
徳川家康が天正壬午の乱で勝利を治めることができたのは、甲斐国衆や旧武田家臣が協力してくれたおかげ。
天正壬午の乱の後、徳川家康は、
① 甲斐国の統治を甲斐国衆や旧武田家臣に任せる
② 甲斐国衆の知行を安堵する
③ 武田信玄の菩提寺を再興する
④ 武田勝頼の菩提寺を建立する
などして、甲斐国衆や旧武田家臣の労に報いました。
こうして、甲斐国衆や旧武田家臣の心を掴んだ徳川家康。
でも、徳川家康は甲斐国衆や旧武田家臣の心をより強く掴みたいと考えていました。
そこで、思いついたのが、武田家と姻戚関係を築くこと。
亡き武田信玄と血縁関係にある女性を側室に迎えることにしたんです。
まず、ターゲットとなったのは、武田信玄の四女・松姫(信松尼)。
松姫を探し出すよう、徳川家康は家臣に命じます。
ところが、織田・徳川連合軍による甲州征伐の後、松姫は八王子に逃亡して見つかりませんでした。
武田信玄の他の娘は、
・既に嫁いでいた
・亡くなっていた
ため、続いてターゲットになったのは旧武田重臣の娘です。
中でも、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで討死した武田四天王・馬場信春の娘に注目しました。
徳川家康は鳥居元忠を呼び出し、馬場信春の娘を探し出すよう命じます。
捜索から帰ってきた鳥居元忠は、
見つかりませんでした。
と報告しました。
紆余曲折を経て、徳川家康は穴山信君の養女・お都摩の方(下山殿)を側室に迎えます。
穴山氏は武田姓を名乗ることを許された御一門衆。
無事、徳川家康は武田家と姻戚関係を築くことができました。
鳥居元忠は徳川家康を裏切って馬場信春の娘を側室に迎えていた!
徳川家康に、
馬場信春の娘は見つかりませんでした。
と報告した鳥居元忠。
実は、鳥居元忠は馬場信春の娘を見つけ出していました。
捜索中に、馬場信春の娘にすっかり惚れこんでしまった鳥居元忠。
徳川家康に内緒で居城・谷村城に連れ帰り、側室に迎えていたんです。
ところが、徳川家康は鳥居元忠を叱りませんでした。それどころか、「お祝いするから、二人で一緒に会いに来るように」と言いました。
鳥居元忠は馬場信春の娘との間に、
・鳥居忠勝
・鳥居忠頼
・鳥居忠昌
の3人の息子と娘(戸沢政盛の妻)を授かりました。
鳥居元忠が最期を迎えた伏見城。
伏見城の図面を見た馬場信春の娘は、
伏見城が陥落するとすれば、松の丸からでしょう。
と言います。
実際、伏見城の戦いでは、松の丸が最初に落ち、伏見城は陥落してしまいました。
流石、武田四天王・馬場信春の娘ですね。
まとめ:鳥居元忠は恋に盲目だった?
鳥居元忠が徳川家康を裏切って馬場信春の娘を側室に迎えていたエピソードを紹介しました。
徳川家康に許しを乞うどころか、報告もせず、馬場信春の娘を側室に迎えていた鳥居元忠。
鳥居元忠は徳川家康が今川家で人質生活を送っていた時からの忠臣。
主君と家臣という関係だったとはいえ、徳川家康と鳥居元忠は気心の知れた仲だったのではないでしょうか。
大河ドラマ「どうする家康」を見るなら、こちらのDVDがオススメです。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!