唐の第14代皇帝・憲宗は、国力を失い衰退した唐を一時的に復興させた皇帝として評価されていますが、憲宗はどのような人物なのでしょうか。
憲宗とその妻・郭貴妃の生涯を紹介します。
憲宗ってどんな人?
憲宗は778年生まれで、苗字は李、名前は純といいます。
唐の第13代皇帝である父・順宗と母・王良娣の間に誕生しました。
郭氏と結婚する
788年、広陵郡王に封じられ、793年には郭氏と結婚しました。
794年には、側室・紀美人との間に第1皇子・李寧を、795年には、郭氏との間に第3皇子・李恒を授かりました。
生母が判らない理由の多くは、生母の身分が低いから。
おそらく、李惲の生母も身分が低かったと考えられます。
即位する
805年、順宗が即位すると、李純は皇太子となりました。
皇太子となって4ヶ月後、宦官・倶文珍が順宗に譲位を迫り、李純は憲宗として即位しました。
憲宗は李寧を皇太子に選びました。
① 宰相・武元衡、李吉甫を登用して、禁軍を活用し、反抗的だった河朔三鎮を従える
② 杜黄裳を登用して、猛威をふるう宦官に対抗する
杜黄裳は科挙の進士科に合格した後、名将・郭子儀のもとで朔方軍に従事し、順宗によって宰相に抜擢されました。
③ 科挙、律令制を見直し、官吏を削減して、財政を確保する
④ 淮南西道節度使を討伐して、節度使の勢力を抑制する
討伐後、節度使が勢力を盛り返さないように、宦官に節度使を監視させて、地方の統制を強化しました。
長い間、唐は宦官と節度使に悩まされてきましたが、憲宗の改革によって、宦官と節度使の権力の抑制に成功しました。
皇太子を失う
ところが、812年、李寧が19歳の若さで病死。
憲宗は悲しみに暮れ、仏教と道教に溺れてしまいました。
莫大な国費を使って、法門寺の仏舎利を建立し、李寧を供養しました。
43歳で崩御する
李寧が亡くなったため、次の皇太子を決めなければいけませんでしたが、李惲は身分が低い生母から生まれたため、皇太子になることはできません。
郭氏が産んだ李恒は、出身としては皇太子にふさわしいものの、憲宗は李恒を嫌っていました。
李恒はいわゆる根暗で、性格の面では皇太子にふさわしくなったんです。
でも、皇太子の座を空けておくわけにはいきません。
仕方なく、李恒を皇太子にしましたが、李寧を亡くした悲しみは消えず、丹薬を乱用し、精神に異常をきたして、宦官を虐待するようになりました。
820年、宦官・王守澄と陳弘志によって暗殺され、43歳で崩御しました。
妻・郭貴妃は郭子儀の孫だった!
郭氏は779年生まれで、華州(陝西省渭南市)の出身。
793年、14歳で李純と結婚。
795年、第3皇子・李恒を出産し、後に、第6皇子・李悟を出産しました。
805年、順宗が李純に譲位し、憲宗が即位すると、郭氏は貴妃に冊立されました。
811年、李恒が皇太子になると、大臣らは郭貴妃を皇后に冊立するように上奏しましたが、李寧を亡くした憲宗の悲しみが消えないこと、また、憲宗に側室が多かったことから、郭貴妃は皇后に冊立されませんでした。
まとめ
憲宗とその妻・郭貴妃の生涯を紹介しました。
宦官・倶文珍に擁立されて、憲宗は唐の第14代皇帝として即位しましたが、宦官を優遇するどころか、宦官の権力の抑制に努めました。
また、節度使の権力を抑制したり、官吏を削減して、財政を確保したりしました。
でも、第1皇子を亡くした悲しみから、仏教、道教、丹薬に溺れ、宦官・王守澄らに暗殺されました。
郭貴妃は皇后に冊立されることはなかったものの、皇后に近い立場として、憲宗を支え続けました。
憲宗は43歳で崩御しましたが、郭貴妃は70歳まで生きて、第19代皇帝・宣帝の治世まで見届けることになります。
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