小田原征伐で敗北するまで、100年にわたって関東を治めていた北条氏。
その後、北条氏は河内狭山藩という大阪府南部にあった小さな藩の藩主を務めました。
北条氏が河内狭山藩主になった理由、家臣間で起きたお家騒動を紹介します。
北条氏が河内狭山藩主になった理由!
初代当主・北条早雲から始まり、
・北条氏綱
・北条氏康
・北条氏政
・北条氏直
の5代にわたって関東を支配した北条氏。
ところが、東は東海から西は九州まで平定した豊臣秀吉との戦い・小田原征伐に敗北し、関東から追い出されてしまいます。
実権を握っていた北条氏政は切腹を命じられ、この世を去りました。
氏直が河内国で大名に復活する
徳川家康の娘婿である北条氏直は高野山に流刑となり、命を助けられます。
高野山に移った翌年の天正19年(1591年)8月。
豊臣秀吉に許された北条氏直は河内国で1万石を与えられ、大名に復帰しました。
氏規が河内国に7千石を与えられる
北条氏直と共に高野山に流刑となった叔父・北条氏規は豊臣秀吉の旗本として取り立てられます。
実は、北条氏規と徳川家康は旧知の仲。
北条氏規は徳川家康と共に今川家の人質として幼少期を過ごしていました。
更に、北条氏規は豊臣秀吉から気に入られていました。
というのも、北条氏規は上洛しない兄・氏政に代わって京都に足を運び、豊臣秀吉に挨拶したからです。
北条氏規と接する機会の多かった徳川家康と豊臣秀吉はその実力を認めていました。
北条氏規は、
・河内国丹南郡(大阪狭山市全域、堺市や松原市、羽曳野市、藤井寺市の一部)に2千石
・河内郡(東大阪市、八尾市の一部)に6980石
を与えられました。
氏直、氏規の遺領を継いだ氏盛が狭山藩主になる!
ところが、
① 大名として復活したその年・天正19年(1591年)に北条氏直
② 慶長5年(1600年)に北条氏規
が亡くなります。
北条氏直は徳川家康の次女・督姫と結婚していましたが、男の子を授かりませんでした。
そのため、北条氏規の長男・氏盛が、
① 北条氏直の遺領の内4000石
② 北条氏規の遺領6980石
の合計約1万1000石を相続。
河内狭山藩初代藩主となります。
北条氏盛は久宝寺町にあった氏規邸に住んで政務を行いました。
第2代藩主・氏信は大阪府大阪狭山市の狭山池のそばに狭山陣屋を建てます。
初代藩主・北条氏盛から始まり、第12代藩主・北条氏恭の12代にわたって狭山藩を存続させました。
私が狭山藩陣屋跡を訪れたのは4月初め。
写真では散り始めていますが、タイミングが合えば、桜が綺麗だと思います。
家臣間で起きたお家騒動とは?
宝暦10年(1760年)、第7代藩主・北条氏彦の治世で「狭山騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発しました。
① 北条氏が関東を支配していた頃からの旧臣・小田原衆
② 狭山藩に移ってから新たに採用した家臣
の間で起きた騒動です。
当時、狭山藩では政治が腐敗し、また、財政が逼迫していたため、藩政改革を行う必要がありました。
第6代藩主・北条氏貞の治世では、家老・田中仙右衛門を中心に改革が進められていました。
ところが、その改革に旧臣・小田原衆が大反対。
田中仙右衛門を辞任に追い込み、藩政改革は頓挫してしまいました。
北条氏貞の跡を継いだ北条氏彦の治世では、藩士・山上郷助、村上庄多夫が藩政改革を再び進めようとします。
ところが、またもや小田原衆に反対され、山上郷助は殺されてしまいます。
狭山騒動が起きた時、北条氏彦はまだ19歳。
家臣の中には、北条氏彦より若い家臣もいましたが、多くが年上。
北条氏彦は村上庄多夫に切腹を命じ、小田原衆を鎮めることで、騒動を収めました。
まとめ:小田原征伐を経て北条氏は小さな狭山藩主に!
北条氏が河内狭山藩主になった理由、家臣間で起きたお家騒動を紹介しました。
小田原征伐で豊臣秀吉に敗北した北条氏。
支配していた関東を追い出され、高野山流刑を経て、河内国狭山藩主となりました。
藩政改革の必要性に迫られるも、お家騒動が起きて改革は頓挫。
第12代藩主・北条氏恭は他藩より早く版籍奉還を行いました。
狭山藩陣屋跡は南海高野線「大阪狭山市駅」から徒歩8分のところにあります。
・大阪狭山市役所
・大阪狭山市立郷土資料館(大阪府立狭山池博物館内)
では、狭山藩北条氏に関する観光案内パンフレットを配布しています。
狭山藩における北条氏の軌跡をたどりに、足を運んでみてはいかがでしょうか。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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