徳川家康の父・松平広忠と離縁した母・於大の方。
弟・水野信元に薦められ、於大の方が再婚したのは、阿久比城(別名・坂部城。愛知県知多郡)の城主を務めていた久松長家でした。
水野信元の死に関与した徳川家康の継父・久松長家(俊勝)の最後と子孫を紹介します。
徳川家康の継父・久松長家(俊勝)は水野信元の死に関与!
久松長家は大永6年(1526年)生まれ。
尾張国の守護大名・斯波氏に仕えていた久松定義のもとに誕生しました。
久松氏は大野城(愛知県常滑市)に拠点を構える佐治氏と長年にわたって対立していました。
でも、天文15年(1546年)、徳川家康の父・松平広忠に仲介され、久松長家は佐治氏と和睦。
松平家とはもちろん、松平家と敵対する織田家とも交流をもち、上手く立ち回りました。
於大の方と再婚する
久松長家は大高城主・水野為善の娘(以下、水野氏)と結婚し、長男・久松信俊を授かりました。
ところが、間もなくして、久松長家と水野氏は死別。
天文16年(1547年)、久松長家は徳川家康の伯父・水野信元に薦められ、於大の方と再婚しました。
久松長家と於大の方の間に、
① 久松勝元(後の松平康元)
② 久松勝俊(後の松平康俊)
③ 松平定勝
④ 多劫姫
⑤ 松姫
⑥ 天桂院
⑦ 女子
の3人の息子と4人の娘が誕生しました。
徳川家康に仕える
永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いの後、今川家から独立した徳川家康に従うことを選択。
永禄5年(1562年)、久松長家は今川家臣・鵜殿長照が城主を務める上ノ郷城を攻略します。
・自身が城主を務めていた阿久比城は久松信俊に
・攻略した上ノ郷城は次男・久松勝元に
任せ、久松長家は西郡城(愛知県宝飯郡)の城主になりました。
水野信元の死に関与する
天正3年(1575年)、水野信元に武田勝頼と内通していた疑いがかけられます。
織田信長は徳川家康に水野信元を斬るよう命じました。
徳川家康は水野信元を呼び出しましたが、水野信元は徳川家康を警戒して応じません。
そこで、徳川家康は水野信元の義弟にあたる久松長家に連絡。
事情を話さず、水野信元を徳川氏(松平氏)の菩提寺・大樹寺に案内するよう依頼しました。
何も知らない久松長家は水野信元を大樹寺に誘いました。
その後、水野信元は徳川家臣・平岩親吉に斬られました。
久松長家(俊勝)の最後は?
・徳川家康が伯父より織田信長との関係を重視したこと
にショックを受けた久松長家は出奔。
各地を転々とした後、西郡城に戻り、天正15年(1587年)に63歳で亡くなりました。
久松長家(俊勝)の子孫は?
水野信元の死後、出奔した久松長家。
久松長家と於大の方の間に誕生した、
① 久松勝元(後の松平康元)
② 久松勝俊(後の松平康俊)
③ 松平定勝
は徳川家康に仕えましたが、前妻・水野氏との間に授かった久松信俊は織田信長に仕えました。
久松信俊の城主を務める阿久比城が織田氏の支配下に置かれたためです。
久松信俊に悲劇が訪れたのは天正5年(1577年)。
織田家臣・佐久間信盛の指揮のもと、久松信俊は石山本願寺を攻撃していました。
この時、佐久間信盛は織田信長にある嘘をつきました。
久松氏は一向宗(浄土真宗本願寺派)を保護していたことがある
と言ったんです。
・久松信俊が裏切って石山本願寺に寝返るかもしれないと思ったのか
・一向宗を保護していたことが逆鱗に触れたのか
久松信俊は織田信長から謀反の疑いをかけられてしまいました。
気が動転した久松信俊は大坂四天王寺に向かい、自害してこの世を去りました。
その後、佐久間信盛は阿久比城を攻め、久松信俊の子どもを殺しました。
この時、妻・佐治対馬守の娘のお腹の中には、新たな命が芽生えていました。
逃げ切った佐治対馬守の娘は実家で無事出産。
その子・久松信綱(久松信俊の孫)は、久松俊勝の四男・松平定勝に仕えました。
まとめ:久松長家(俊勝)は徳川家康を許せなかった!
水野信元の死に関与した徳川家康の継父・久松長家(俊勝)の最後と子孫を紹介しました。
水野信元の死に関与した久松長家はショックを受け、徳川家康のもとを去りました。
でも、徳川家康に手を貸していなければ、久松長家自身も織田信長から命を狙われていたかもしれません。
それでも苦悩した久松俊勝は、身内を殺した徳川家康を許せなかったのではないでしょうか。
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