武田信玄、武田勝頼の二代にわたって武田家に仕えた山県昌景。
① 軍事面
② 行政面
の両分野で活躍するオールマイティーな戦国武将でした。
井伊直政が継承した赤備え隊長・山県昌景が長篠の戦いで迎えた最期を紹介します。
井伊直政が継承した赤備え隊長・山県昌景!
山県昌景は永正12年(1515年)もしくは享禄2年(1529年)生まれで、武田家臣・飯富道悦(おぶどうえつ)のもとに誕生しました。
山県昌景が永正12年(1515年)生まれだったとしたら、生まれてすぐに父を失ったことになります。
武田信玄に仕える
山県昌景の最初の主君は武田信玄でした。
① 伊奈攻めで初陣を果たす
② 神之峰城攻めで一番槍をあげる
などの功績をあげた山県昌景。
天文21年(1552年)には、騎馬150持の侍大将となりました。
それから約10年後の永禄6年(1563年)には、譜代家老衆の仲間入りを果たし、300騎持の大将になります。
① 北飛騨に本拠地を構える江馬氏
② 南飛騨に本拠地を構える三木氏
を降伏させ、武田家臣に引き入れました。山県昌景は江馬時盛に命じて、高原諏訪城の支城となる神岡城を築城させました。
この時、目の前に現れた一匹の猿に案内されて、山県昌景は温泉に入りました。
山県昌景の入った温泉は岐阜県高山市にある平湯温泉の発祥となったといわれています。
赤備え隊長になる
永禄8年(1565年)、武田信玄の長男・武田義信と山県昌景の兄・飯富虎昌が謀反を企てました。
山県昌景は武田信玄に密告し、飯富虎昌は処刑されました。
この時、謀反を未然に防いだ山県昌景は飯富虎昌が率いていた部隊・赤備え部隊を引き継ぎます。
また、山県姓を贈られ、山県昌景と名乗るようになりました。
「井伊の赤備え」という言葉から、赤備え部隊といえば井伊直政を連想する方が多いと思います。
でも、赤備え部隊は元々山県昌景のものであり、元々飯富虎昌のものだったんですね。
朱印状奏者や他国との取次を務める
駿河国の今川家、相模国の北条家と戦う他、参陣命令や寺社支配など、山県昌景は朱印状奏者として行政面でも活躍。
また、駿河侵攻では、三河国の徳川家康に今川領の分割をもちかけるなど、他国との取次も務めました。
永禄12年(1569年)、駿河国江尻城主に任命されました。
武田勝頼に仕える
元亀3年(1572年)から元亀4年(1573年)にかけて行われた西上作戦では、秋山虎繁と共に武功を上げました。
元亀4年(1573年)4月、武田信玄が病死すると、武田勝頼に仕えました。
でも、山県昌景と武田勝頼は相性が悪く、武田勝頼から疎まれてしまいました。
長篠の戦いで迎えた最期とは?
天正3年(1575年)5月、武田勝頼は1万5000人の兵を率いて、長篠城を攻めました。
長篠城の城兵は城主・奥平信昌率いるたった500人。
武田勝頼は勝利を確信していました。
ところが、奥平家臣・鳥居強右衛門の決死の覚悟のおかげで、織田・徳川連合軍3万8000人が援軍としてやって来ることになりました。
勝ち目がないと判断した山県昌景は武田勝頼に撤退するよう進言します。
ところが、武田勝頼は山県昌景の話を聞かず、織田・徳川連合軍と戦うことを決意しました。
山県昌景をはじめ、多くの武田家臣が討死を覚悟。
山県昌景は武田軍の中で最も早く攻撃を仕掛けましたが、織田・徳川連合軍から攻撃を受けて退却しました。
退却する途中、織田・徳川連合軍に追われて、山県昌景は討死しました。
まとめ:山県昌景は軍事面も行政面もこなす戦国武将だった
井伊直政が継承した赤備え隊長・山県昌景が長篠の戦いで迎えた最期を紹介しました。
① 騎馬や赤備え部隊を率いる
② 朱印状奏者や他国との取次を務める
など、幅広い分野で武田家を支えた山県昌景。
武田勝頼が長篠城から素直に撤退していれば、山県昌景は更なる活躍をみせてくれたのではないでしょうか。
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