桶狭間の戦いの後、今川家から独立し、生まれ育った岡崎城に戻った徳川家康。
でも、その10年後には、岡崎城を離れて曳馬城(後の浜松城)に移り住みました。
何故、徳川家康は浜松城に住んだのでしょうか。
徳川家康が浜松城に住んだ理由と曳馬城から改名した理由を紹介します。
徳川家康はなぜ浜松城に住んだ?
徳川家康が浜松城に住んだのは、武田信玄の遠江・三河侵攻に備えるためです。
武田信玄と同盟を結び、今川領を侵攻
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討ちます。
今川家の人質だった徳川家康は混乱に乗じて岡崎城に戻り、今川家から独立しました。
永禄5年(1562年)、徳川家康は織田信長と清洲同盟を結びます。
永禄10年(1567年)5月には、徳川家康の長男・徳川信康と織田信長の長女・徳姫が結婚。
織田信長と結束を強めた徳川家康は、今川義元の長男・今川氏真を筆頭とする今川氏を滅ぼし、今川領を手に入れようと考えていました。
ところが、今川領を狙っていたのは、徳川家康だけではありませんでした。
永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が今川氏の支配下にあった駿河に侵攻します。
駿河侵攻にあたって、武田信玄は相模の北条氏康・北条氏政親子に援軍を要請しました。
でも、北条氏康の正妻・瑞渓院の反対にあい、要請に応じてもらえませんでした。
・武田信玄が駿河に侵攻しようとしていること
・北条氏康に援軍を拒まれたこと
を知った徳川家康は、武田信玄と密約を結びます。
兵1万2000人の武田軍を目にした今川軍は、戦意を失い、戦うことなく退却。
駿府はあっけなく武田領となりました。
一方の徳川家康も井伊谷城(浜松市北区)や曳馬城(浜松市中区)を攻め落とします。
そして、今川氏真のいる掛川城を包囲しました。
武田信玄に裏切られる
徳川家康と武田信玄は同盟を結ぶにあたり、次のような約束をしていました。
① 大井川の東・駿河を武田領
② 大井川の西・遠江を徳川領
とする。
ところが、駿府を手に入れた武田信玄は、家臣・秋山虎繁(信友)に遠江を侵攻させます。
徳川家康は秋山軍の遠江侵攻に急遽対応しなければいけなくなりました。
でも、今川氏真が掛川城に籠城したため、徳川家康は掛川城をなかなか攻略できません。
そこで、今川家臣の命を助けることを条件に、徳川家康と今川氏真は和睦します。
永禄12年(1569年)5月、徳川家康は9年間にも及ぶ今川氏との対立に終止符を打ちました。
北条氏と一緒に秋山軍を撃退する
徳川家康は今川氏真の義父・北条氏康の協力を得て、遠江に侵攻した秋山軍を撃退しました。
武田信玄が北条氏と同盟を結ぶ
今川氏真と和睦したことで、北条氏という頼りになる味方を得た徳川家康。
ところが、北条氏康が亡くなると、跡を継いだ北条氏政が武田信玄と同盟を結びます。
武田信玄の遠江・三河侵攻に備える
武田信玄の遠江・三河侵攻に再び備えることとなった徳川家康。
徳川家康は遠州を見渡せる三方ヶ原台地に着目します。
三方ヶ原台地の東南端で、徳川家康が拠点としていた岡崎城から70キロメートル東にある曳馬城に拠点を移すと決めました。
武田信玄を万全の体制で迎え撃つために、徳川家康は曳馬城の拡張に取り掛かります。
木原吉次を中心に、倉橋宗三郎、小川家次らが築城、改修を行いました。
曳馬城の改修が終わると、徳川家康は曳馬城から浜松城と改めました。
曳馬城から改名した理由は?
紹介したように、曳馬城の改修を終えた徳川家康は曳馬城から浜松城と名前を改めました。
何故、曳馬城のままではいけなかったのでしょうか。
敗北を連想させる城名では、徳川家康はもちろん、家臣の士気が上がりません。
そこで、この土地にあった荘園(浜松荘)にちなんで、浜松城と改めました。
徳川家康は29歳から45歳までの17年間を、こだわりの詰まった浜松城で過ごしました。
まとめ:武田信玄の侵攻に備えて、縁起のいい城名に改名!
徳川家康が浜松城に住んだ理由と曳馬城から改名した理由を紹介しました。
武田信玄の遠江・三河侵攻に備えなければならなくなった徳川家康は、遠州を見渡せる三方ヶ原台地の近くにあった曳馬城に拠点を移しました。
そして、曳馬城を改修した後、曳馬城という名前は縁起が悪いとして、この土地の浜松荘にちなんで、浜松城と改めました。
徳川家康が浜松城を拠点とした2年後、武田信玄との間に一言坂の戦いが勃発します。
果たして、浜松城を拠点とした徳川家康のこの判断は正しかったのでしょうか。
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