江戸幕府初代将軍・徳川家康。
教科書でお馴染みの人物名ですが、実は、徳川家康は松平元信、松平元康、松平家康と名乗っていた時期がありました。
徳川家康はいつ、どんな理由で改名、改姓したのでしょうか。
天文11年(1542年)に生まれ、元和2年(1616年)に亡くなるまでの75年間の生涯で、徳川家康が4回改名した経緯を紹介します。
幼名は竹千代
漢字を見て分かるように、幼名とは幼少期の名前を指します。
私達は生まれた時につけられた名前が本名となりますが、昔は元服前に幼名を用い、元服後に通称や実名を用いるのが一般的でした。
天文11年(1542年)に生まれた徳川家康は、天文24年(1555年)3月に元服を迎えるまで、竹千代という幼名を用いました。
徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠、長男・徳川信康、三男・徳川秀忠など、徳川家康の先祖、子孫の幼名も竹千代でした。
安祥松平家、徳川将軍家の跡継ぎは幼名に竹千代を用いたんですね。
松平元信と改名する
今川家で人質生活を送っていた徳川家康。
当時の今川家の当主は今川義元です。
天文24年(1555年)3月、今川義元のもとで、14歳だった徳川家康は元服しました。
当時、烏帽子を被せる仮親・烏帽子親が自身の名前から元服する男子・烏帽子子に一文字与える風習がありました。
徳川家康は烏帽子親である今川義元から一文字・元を頂戴して、松平元信と名乗るようになりました。
松平元康と改名する
今川義元の姪・築山殿と結婚した徳川家康は、祖父・松平清康から一文字・康を頂戴して、松平元康と名乗るようになりました。
残念ながら、松平清康は25歳の若さでこの世を去ってしまいましたが、徳川家康は松平清康の武功にあやかろうとしていたのかもしれません。
松平家康と改名する
永禄3年(1560年)に起きた桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に討たれ、徳川家康は主君を失いました。
通常であれば、今川義元の跡継ぎである今川氏真に仕えるところですが、徳川家康は父の敵を討とうとしない今川氏真を尊敬することができず、生まれ育った岡崎城に無断で帰ります。
永禄6年(1563年)、織田信長と清州同盟を結んだ徳川家康。
長男・徳川信康と織田信長の長女・徳姫が婚約し、織田家との同盟関係がより強固なものとなると、今川家と決別するべく、今川義元から頂戴した一文字・元を返上し、松平家康と名乗るようになりました。
「家」を用いた理由は2つの説があります。
一つ目は、徳川家康の母・於大の方の再婚相手であり、徳川家康の父親代わりである久松俊勝にまつわる説。
久松俊勝が昔用いていた長家という名前から、一文字頂戴したというものです。
二つ目は、清和源氏の祖・源義家にまつわる説。
源義家は平安時代後期の武将で、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝や室町幕府初代将軍・足利尊氏の祖先にあたります。
源義家から一文字頂戴したというものです。
徳川家康と改名する
人生三大危機の一つ・三河一向一揆を無事鎮圧した徳川家康は、永禄9年(1566年)に三河を統一。
国主(三河守)になりたかった徳川家康は、朝廷に「三河の国主に任命してほしい」と申し出ました。
ところが、朝廷の答えはノー。
「徳川家康は氏(血族の)素性が分からない」という理由で認められませんでした。
そこで、祖父・松平清康は清和源氏世良田氏の後裔と称していたため、徳川家康は世良田氏を称しました。
すると、朝廷は「世良田氏に三河守叙任の前例がない」として拒否しました。
当時、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の四姓と関わりがなければ、叙位任官は認められない風習がありました。
そこで、徳川家康は源氏との関わりを証明しようと、関白・近衛前久に相談しました。
・徳川家康の遠祖・世良田義季の氏族は清和源氏新田氏流得川氏で、得川氏を名乗っていたこと
・新田系得川氏が藤原姓を名乗っていたこと
が判明。
上記の2点をベースに、家系図を清書し、朝廷に提出しました。
徳川家康が得川を用いなかったのは、得川より徳川のほうが、縁起が良かったためです。
家系図を確認した朝廷は、徳川家康の姓を松平から徳川に改めることを特例として認め、徳川家康を従五位下・三河守に任命しました。
まとめ
徳川家康が4回改名した経緯を紹介しました。
幼名を用いていた戦国武将の改名は珍しいことではありませんが、松平元康から松平家康に、松平家康から徳川家康に改名したのは、三河守になることを見据えてしていたのかもしれません。
三河を統一した時には、徳川家康は既に狸親父だったのではないでしょうか。
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